Sightsong

自縄自縛日記

フェリックス・ガタリ『三つのエコロジー』

2008-10-08 23:45:46 | 思想・文学

フェリックス・ガタリ『三つのエコロジー』(平凡社ライブラリー、原著1989年)は、ガタリの環境論かとおもいきやそうではない。ここでガタリの言うエコロジーとは、環境のエコロジーだけでなく、社会のエコロジー精神のエコロジーを含んでいる。そしてそのようなエコロジー概念が哲学と交錯するあり方をエコゾフィーと呼んでいる。

もっとも、定義などは問題でない。自然環境が一様な法則に従う構成主義的なものではありえないように、社会も精神もそうであっては破滅する。静的な構成要素という捉え方であってはならない、という思いが、ガタリをしてエコロジー概念を拡張させたのだとおもえる。

言い回しは平易ではないものの、本書の幹は(ガタリであるからリゾーム的にイメージすべきか)、シンプルで情熱的ですらある。ハノイの空港での長い待ち時間に読んだが、いかに読み手が能動的に体内のボキャブラリー(言葉に限らず)を用いて再構築するかによって、面白さが異なってくる。

ガタリがエコゾフィーを説く背景には、ほんらい無限の差異が圧延され、同一の価値次元のもとにすべてが総体の構成要素として奉仕するような世界への抵抗がある。たとえば、国家というものの強化、新自由主義的な世界市場、軍事・産業複合体といったところが想起される。

それに対して、エコロジー的な身振りとしては、常に<実践>により、自己領域からの脱領域をはかり続け、何か大きなものに依拠するのではない論理を構築し、異物たることが考えられているようだ。これは、誰もが<芸術家>であることに他ならない、という説明となる。ガタリがこちらを安心させるのは、<実践>が日常的な身振りであり、決して高邁な活動などを意味しているわけではないことだ。

「精神、社会体、環境に対する行動を別々に切り離すのは正しくない。この三つの領域の劣悪化を直視しないでいると―――メディアがそれを支えるかたちで―――、やがて世論は小児化し、民主主義は破滅的な無力化にいたりつくだろう。」

「さまざまに異なった実践のレヴェルがあり、それらは何も均質化したり、ある超越的な後ろ盾の下に無理につなぎ合わせたりするにはおよばないのであって、むしろ、異種混成的な過程に入るべきなのである。」 「特異性、例外性、稀少性というものを、国家秩序的発想をできるだけ排しながら総体的に把握し、位置づけることが要請されているのである。」

「個人的・集団的な主観性が、自己同一性に囲いこまれ、「自我化」され、個人別に仕切られた境界領域からいたるところではみ出し、社会体の方向だけでなく、機械領域、科学技術的な参照の場、美的世界、さらには時間や身体や性などの新たな「前-個人的」理解の方向へと、全方位的にみずからをひらいていくようにならなければならない。再特異化の主観性が欲望や苦痛や死といったようなすがたをまとった有限性との遭遇を真正面からうけとめることができるようにならなければならない。」

社会と個が、メディアを通じて判断停止に陥り、それを喜んで受動的に支えているような状況を想起するなら、蠢き続ける自律的な異物であろうとすることは、決して空論ではないとおもえる。むしろ、元気の出る本である。


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