柄谷行人『倫理21』(平凡社ライブラリー、原著1999年)を読む。
イマヌエル・カントの思想に立脚しての倫理・責任論である。その視線が注がれているのは、生を共有する者にだけではない。生きていながら共有の領域に入っていない者(あるいは領域という概念すら届いていない者)、死んだ者、これから生まれる者にも、である。従って、共有という考えすら、ひとりよがりのものだと認識される。合意の最大化という意味での政治が、しばしば自分たちの世界だけで閉じているからだ。
柄谷によれば、カントの思想は、次のように解釈される。人の行動や考えは、社会や環境や教育や個人史によって形成され、律せられている。完全にそれらと独立な考えなどあり得ない。自由な欲望と思っているものすら、他者の欲望に律せられているものに過ぎない。しかし、そういった因果は双方向には成立しない。ある結果の原因を認識することはできるが、ある原因がその結果を生むとは限らない。すなわち、原因の追及と責任の追及はまったく別のものである。戦争責任の問題に関して、責任を問われると事実を否認する者がおり、責任をいう人たちは原因を問おうとしない。
それでは、人の行動や考えに、その人の自由は反映されないのか―――そうではない。その時々刻々の存在のなかで、人は自由である義務をまぬがれない。たとえば、日本軍に徴兵されていることと、率先して虐殺に手を染めることとはイコールではない。認識に基づき、その自由度を「括弧に入れる」、すなわち、態度変更を私たちは身に付けなければならない。ここに責任が発生する。
そして、倫理とは、生きる者・死んだ者・生まれていない者・認められていない者に共通の「括弧」を作り出すものである。それこそが「公共」であり、それは決して国家などではない。その実践のためには、「他者」を「手段」としてのみならず「目的」として認識せねばならない。ところが、「他者」の認識には多大なる努力を必要とする。場合によっては、無知のために認識していなかったことも許されない。無知に責任があるならば、自分を含む世界を徹底的に認識し続けるほかはない。
―――そんなところである。戦争責任への懐疑論者に欠落する倫理と責任の問い直しだというわけである。
鳩山政権の米軍基地問題をめぐる功罪について考えてみる。「功」は、米軍基地が沖縄に偏り、その不公平や歴史や、「抑止力」という欺瞞で覆い隠してきた、ということに対する大多数の「無知」を、いくばくかは「認識」に変えたことだ。「罪」は、もちろんひとつではない。「他者」の存在の認識を断念したことは許されることではない。しかし、翻って、テニアンやグアムを「目的」たる「他者」ではなく「手段」たる「他者」として認識しようとする動きも、必ずしも真っ当なものとは言い難いのではないか。
ご紹介の本もその一冊です。
「可能なるコミュニズム」「倫理21」から「トランスクリティーク」へと帰結するわけですね。
最近、文庫本になったせいか「トランスクリティーク」があらためて注目されているようです。改めて読み直そうかと思ったものの、名著ですが大冊。このところブログの更新もままならぬ多忙で、小さな本ですら読むのに苦労している状態です。これは入院でもしなければ読めそうもありません。
ところで、編集者として不思議に思っているのですが、ぼくが所蔵する柄谷本のなかで、「倫理21」だけがなぜか「ですます」調で書かれています。他の本は「である」調なのに、どうしてでしょうね。平凡社の意向かもしれませんが、なんだか違和感があります。
新装版『トランスクリティーク』、ずいぶん売れているようで、買おうと思った2店で品切れでした。岩波からも新刊が出るようです。
さて、『倫理21』ですが、当時衝撃を受けたのは主に次の点です。
・世界市民的に考えることが「パブリック」である
・異なる「共通感覚」をもった他者との合意
・幸福主義(功利主義)には「自由」がない
そして今読み返して同じ箇所から自分は何を読みとろうとしたのか。それは私が沖縄へ移った存在証明のようなことではないか。
長くなりそうなので自分のブログに書くことにしますが(笑)、ポイントだけ述べると、他者としての沖縄ということになります。
それから「ですます調」については、原本「あとがき」で触れられている通り、もともと講演したものを、編集者に乞われて加筆・再構成したものだということです。私は漱石の講演集『私の個人主義』をどうしてもアナライズしてしまいます。
確かに「公共/パブリック」の捉え方は非常に刺激的です。政治のヴィジョンはまったくそんなところに追いついていない、EUや東アジア共同体ですら。己の他者認識を見よ、というところでしょうか。
ウィトゲンシュタインは、その性格上、理系にわりと人気のある思想家で(笑)、私も面白く読んではいたのですが、どうも隘路か袋小路に入り込む雰囲気に先を見出せないような気がしていました。開かれた系ではなく理屈だけで読むのには限界がありそうです。柄谷行人のまなざしでウィトゲンシュタインを読むというのは興味深いですね。『探求Ⅰ』も、(それからまだ読んでいない『世界共和国へ』も、)早いうちに読んでみます。
漱石の『私の個人主義』は、高校生の時分にずいぶん影響された本なのですが、『倫理21』で言及されているような側面はまるで記憶にありませんでした。やはり再読が必要なのですね。
漱石が講演したときの時代状況と柄谷のそれが倫理的態度としてどうしても似てしまうというような意味です。むろん漱石の講演について、柄谷は他の著書で論じていますが。
いえいえ、それはそれとして、本書での言及は多少あったのですよ。漱石に対する態度は気になるところ、『漱石論集成』はどうでしょうか。
前者の極めつけ部分は「風景の発見」など文学「批評」の伝統・制度を破砕したこと、後者ではノースロップ・フライのジャンル論を援用し、漱石そして友人の正岡子規らにあった運動としての「文」というジャンルを見出したこと。いずれもズドーンと刺激的です。
なるほど、柄谷行人は漱石から。『意味という病』ならば随分以前に読んだものの、ほとんど柄谷ルーキーの私には有難いご教示です。