Sightsong

自縄自縛日記

ヒップホップ・モンゴリア(と川崎とケープタウン)

2021-11-20 10:41:53 | ポップス

島村一平『ヒップホップ・モンゴリア』(青土社、2021年)がおもしろい。

ソ連の崩壊を機に社会主義から離脱したモンゴルに、西側の音楽が突然流入した。ウランバートルに行ってみるとわかるけれど、他の大都市と同様にオモテの地域と貧困地域とがある。仕事で泊まった高層ホテルの窓からは、ゴビ砂漠に点在するものとはちがうゲルの地域が見える。そこから社会や政治への不満を背景に出てきた人たちが、モンゴルのラッパーたちの始祖である。一方で、裕福だったり、恋愛を歌ったりする人たちも登場してきた。なるほど百花繚乱。日本語と違って子音を何重にも重ねられる言語であることもヒップホップ発展に貢献した。

興味深い点はいくつもある。

アジアのペンタトニックスケールを使ったものが少なくなかったこと(「ペンタトニック賞」なるものがある!)。ライムを踏みつつも、そこから馬頭琴などを使ったモンゴル伝統音楽につながったり、モンゴル仏教の経典を通じてシャーマニズムにつながったりする動きが出てきたこと。それゆえに「アメリカのヒップホップはモンゴル起源だ」という言説が出てきたのだということらしい。もちろんこれをトンデモ論と片付けるのはたやすいのだろうけれど、モンゴルに向けて置かれてきたヴェクトルを反転するものだとみることもできそうなものだ(保苅実『ラディカル・オーラル・ヒストリー』において、オーストラリアのアボリジニが独自の歴史の語りを継承してきたことが示されたように)。

そしてヒップホップ勃興はウランバートルにおいてだけではない。民族的にみればかれらは中国の内モンゴル、ロシアのトゥヴァやサハなどに分断されてきた。それらの地域への広がりを、著者は、声がつむぐ「ディアスポラの公共圏」と呼んでいる。

だから、ヒップホップをアメリカに限定するのではなく、個々の地域とその広がりやつながりがありうるものとして見るべきだということが納得できる。たとえば、川崎には色街があり、貧困があり、不良文化があり、やくざの構造があった。ラップはその生活から脱出する手段のひとつだった(磯部涼『ルポ川崎』)。あるいは南アフリカのケープタウンでは政治社会への強いプロテストとしてラップが発展し、アフリカ内のキャラバンを通じた拡張の動きもあった。

馬頭琴と共演(NMN)
https://youtu.be/Kz55wcGzw8M

コロナ禍対応の政治批判(Pecrap)
https://youtu.be/XNj0l7J7uhQ

Kawasaki Drift(BAD HOP)
https://youtu.be/I4t8Fuk-SCQ

アフリカを変えるヒップホップ ― サウンズ・オブ・ザ・サウス/アネーレ・セレークワへのインタビュー(以前に翻訳寄稿したが反応がいまいちだった)
https://jazztokyo.org/interviews/post-55722/


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