香港からの帰途、機内で、レオス・カラックス『Holy Moters』(2012年)を観る。
自分にとっては、『ポンヌフの恋人』(1991年)を日本公開初日に観に行って以来のカラックス作品だ(その後に『ポーラX』があるが、観ていない)。主演はカラックス作品でお馴染みのドニ・ラヴァン、その彼ももう50歳を越している。
オスカー(ラヴァン)は、毎朝、異様に長いリムジンに乗って仕事に出かける。1日のアポイントはぎっしり入っている。仕事とは、何者かに化け、奇妙なシチュエーションでの行動をなすこと。老婆と化して物乞いをしたり、野人と化して墓地の花を喰らいつつ、撮影中のモデルをさらったり(このとき伊福部昭『ゴジラ』のテーマソングが流れる)、死ぬ間際の老人に化け、愛する女性との別れの言葉を交わしたり、奇怪なコスチュームに身を包んでエロチックなダンスをしたり、銀行家を殺して自らもボディーガードたちに射殺されたり。
誰のための、何を目的とした演技なのか、どこまで真なのか、まるで解らないのだ。
しかし、途中でヒントがある。オスカーが、このように言う。昔カメラは大きかった。それが頭より小さくなって、今では撮っているのかどうかすらわからない、と。
撮影という行為、編集という行為、観客が観るという行為、そのような営みが映画というものだとすれば、もはや、撮影のみならず、視線や主体がどのようなものであってもよいのかもしれない。撮影さえしていなくてもよいのかもしれない。視線に晒されなくてもよいのかもしれない。
これは映画という制度を解体せんとする挑発であるとみた。