Sightsong

自縄自縛日記

安岡章太郎『街道の温もり』

2018-06-04 14:03:16 | 思想・文学

神楽坂には神楽坂サイクルという自転車屋さんがあって、なぜか店頭の木箱で古本を売っている。前から気にはなっていて、先日、なんとなく、安岡章太郎『街道の温もり』(講談社、1984年)を200円で買った。1980-82年に書かれたエッセイをまとめたものだった。

なんの期待もせずに読んでみたようなものだけれど、なかなか面白く、はっとさせられる箇所が少なくない。

安岡章太郎の故郷は高知県であり、もとは土佐藩士の家系である。だが幼少時からあちこちを転々としていたため、自身の田舎に対する思いは複雑である。その中には憎しみに似たものもあって、「自己嫌悪に似た郷土嫌悪のようなもの」とまで書いている。郷土の重力への嫌悪や距離感、郷土に執着することへの違和感は、本書のあちこちに噴出している。おそらくそれは百パーセント割り切れる感覚でなかったからでもあるだろう。

これが(日本の?)古くねっとりと粘着して綺麗さっぱりとはならない思想のベースにあることは、「イヤな軍隊」というエッセイを読んでもわかる気がする。安岡曰く、「軍隊」とは日本軍そのものにとどまらず、「日本社会の原像とでも言うべきもの」であった。

「では、軍隊が”病気”でないとすると、何なのか? それは内面的には、私たちの一人一人が背負っている過去の一部であり、外面的には、私たちの家庭や、や、農村や、都会や、国家や、そういうもののあらゆる要素を引っくるめた日本社会の原像とでも言うべきものかと思われる。」

ここでいう「軍隊」はいまの「日本社会」や「組織」とはそうは変わらないと言ってもいいのだろう。

面白いことに、安岡も、他の軍隊に属していた者も、『戦陣訓』(1941年)をことさらに戦後に取り上げることに白けていたという。そこに書かれ政府から指導されたという事実についてではない。それが、当たり前のように浸透していたからであった。何も東條英機に登場してもらわなくてもよいということである。これもまた、「軍隊」が「日本社会の原像」と重なってしまうことに他ならない。

「「生きて虜囚の恥づかしめを受くることなかれ」などと、あらためて言われなくとも、いったん敵の捕虜になれば、たとえ原隊に帰ってきても自決させられるものと覚悟しなければならなかったし、仮りにそれを許されて無事に除隊することが出来たとしても、郷里に帰れば村八分のような目にあうだろうし、ちゃんとした所には就職もできない、生涯、兵歴をかくしたまま、大都会の片隅か、日本人の誰もいないような外地ででも暮らすより仕方がない、そういうことは、当時は兵隊でなくても一般市民が常識として誰でもが心得ていた事柄である。」


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