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自縄自縛日記

大野英士『ユイスマンスとオカルティズム』

2010-03-28 16:13:23 | ヨーロッパ

大野英士『ユイスマンスとオカルティズム』(新評論、2010年)の書評を、インターネット新聞JanJanに寄稿した。

>> 『ユイスマンスとオカルティズム』

600頁の大著である。これで多少は、ゾラやフローベールを読む気にもなろうか。JanJanは残念ながら今月で休刊だ。

 J・K・ユイスマンスは19世紀の作家である。『さかしま』では自分の城に閉じこもり変態的とも言える小宇宙を創りだす男を、また『彼方』ではインモラルな悪魔主義を描いた。その後、異端的な位置からカトリックへと回心した、と評価されている。ひょっとすると、現在では一部の好事家が読者の中心なのかもしれない。
 
 本書のタイトルから最初に受けた印象は、そのような作家ユイスマンスが自作のためオカルティズム世界を如何に受容したか、というものだ。ところが、本書の物語る世界はそれを遥かに上回る。19世紀という時代の特質が生み出した作家であると言うことができるのだ。
 
 フランス革命によってなされた「王殺し」。本書は、フロイトやラカンの精神分析理論を所与のものとして、「王」なるものは本来自己の獲得に必要な抑圧者の存在でもあったため「父殺し」でもあったのだと説く。そして、ニーチェが宣言するまでもなく、既に「神」は死んでいた。この「王殺し=父殺し=神殺し」による罪に応じるように、マリア信仰も、異端も、オカルティズムも出てきたのだ、という主張のようだ。
 
 本書が次々に繰り出してくる物証や状況証拠は膨大であり、主体や視線や場を頻繁に交代してのさまざまな物語が複層的に語られる。それにより読者の前に提示される19世紀という世界は、一側面ではあっても、圧倒的だ。また、冒頭に述べたような一般的なユイスマンス像―――異端・悪魔主義・性的倒錯からカトリックの王道へと回帰したという―――についても、単純に過ぎるものとして認識を改めねばなるまい。
 
 というのは、本書によれば、邪悪なるものや穢れたものが「流体」として人から人へと移動するという考えも、それらによる受苦を修道女やマリアが他者のために引き受けることができるという考えも、異端であってもマリア信仰であっても変わりはしないからだ。
 
 さらに言うなら、キリスト教を、人の歴史によらず静的で大きな存在だと捉えることは、あまりにも信仰の「ためにする」信仰だという印象が強くなる。唯一無二の教えを広めることを錦の御旗として世界を血で染めたという歴史はあっても、それと教えの真性とは別だ―――これが一般的な前提ではないだろうか。しかし、「大いなる教え」と、血塗られた歴史や社会の変遷とは不離不可分のものではない。そして、もちろん、それはキリスト教に限った話ではない。
 著者は、帝国が覇権を争い物質主義的な繁栄を謳歌した19世紀末のヨーロッパと、新自由主義的な制度と価値観が殺伐とした社会をもたらしている現在の日本とが滑稽なほどに重なって見えるのだという。ということは、私たちには、ユイスマンスの異常な作品世界を現在の視線で読み直す愉しみがあるということだ。

●参照
J・K・ユイスマンス『さかしま』

●JanJan書評(2009年~)

沖縄
『国策のまちおこし 嘉手納からの報告』に見る「アメとムチ」
コント「お笑い米軍基地」芸人の『お笑い沖縄ガイド』を読む
『沖縄戦「集団自決」を生きる』
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『おててたっち』の読み聞かせ
『ながいなが~い』と『いつもいっしょ』読み聞かせ
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『サステイナブル・スイス』
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『子どもが道草できるまちづくり』を如何に実践するか(クルマ社会)
『地域福祉の国際比較』
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『農地収奪を阻む』(三里塚)
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アート
『美学 ジェンダーの視点から』(キャロリン・コースマイヤー)
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