Sightsong

自縄自縛日記

仲宗根政善『ひめゆりの塔をめぐる人々の手記』、川満信一『カオスの貌』

2009-11-08 21:58:08 | 沖縄

古本屋で、仲宗根政善『ひめゆりの塔をめぐる人々の手記』(角川文庫、1982年)を105円で見つけて読む。表紙は、今井正による『ひめゆりの塔』リメイク版のスチルだろう。

著者は、引率教師として、沖縄戦の末期にひめゆり学徒と行動を共にしている。本人の他に、生き延びたひめゆり学徒の手記を織り交ぜており、そこには、文字通りの地獄を見ざるを得ない。米軍の機銃や爆弾だけでなく、常に言われているように、日本軍の存在が地獄を創り出していた。住民を壕に入れない、食糧調達が上手くないと言って殴る、現地召集された息子の行き場所を尋ねた住民をスパイ容疑で銃殺する、米軍に投降する住民を後ろから撃ち殺す、そのような醜さが、証言として記されている。

「南風原陸軍病院壕にいたときから、満州から戦いに疲れて転進し、人間性をすっかり失い、獣欲にうえた兵隊のみにくい姿をいやというほど見せつけられた。看護のつらさや、砲弾よりもくされきった兵隊のほうがもっとこわかった。」(女学生の手記)

著者は、学生たちを守ることができないことへの贖罪の念を何度も記している。しかし、戦争という状況に置かれた教師の行動という点にとどまらず、その状況を生んだものへの視線は、ゆれ動いて固まることがない。「一少女の自決、それは美しい話にちがいない。しかし美しい話のみが真理であろうか。」と悩むように、「殉国美談」の否定さえも、徹底してはいない。手記は、その事実が起きたときの言動や心理を書くものではあるが、書くときの心理も曖昧に紛れ込む。その意味で、著者にも、女学生たちにも、皇民化教育が楔となって打ち込まれていたことを思い知らされる。美しいからこそ映画になり、後世の者の心に残るのだとしても、その美しさは容易に別の文脈に乗ってしまう。

「制服をまとって安らかに眠っている姿を見ていると、私は深い敬虔の念にうたれた。勇士とともに制服の姿で死出の旅立ちをする。その胸には靖国神社が美しく描かれているのであろうか。」

「「先生すみません」とのどもとでくり返し、頭をたれて、あやまっている彼女の目は、殉じていく至情に、美しく輝いていた。」

「あの場合はしかたがなかったと、いくらいいわけをしてみても、それはいいわけにはならない。自分を社会からひき離し、戦争からひき離して考えたときのいいわけで許されるべきことではない。日本国家全体が犯した罪が、具体的には自分を通じてあらわれたのである。環境がしからしめたということが、どれほど罪を軽くしうるであろうか。」

川満信一は、個人誌『カオスの貌』(6号、2009年)において、仲宗根政善への追悼文を掲載している。琉球大学で、国語学を師事したのだという。当時、文学の中からのみ沖縄戦への言説を発する師に対し、川満は苛立ちを感じていた。その消極性、あるいは、静かさについて、追悼文ではある着地点を見いだしているようだ。

「鉢巻締めて、「ヌチドゥタカラ」と、空疎なはやり概念を叫ぶより、乙女の魂が累々とひしめく暗い死の淵を、心の現実として見つめ続けた師の、戦後の生き方は、むしろ良しとすべきかも知れない。出来れば、戦時下の皇国教師として、生徒たちにどのような忠魂愛国のイデオロギーを指導したのか、指導しなかったのか、散文的自己断罪も、と思うのだが、贖罪と祈りの中で静かな優しさを生きた師の魂に、あえて喧騒を持ち込む愚は避けねばなるまい。
 誰だって、完ぺきに、非のうちどころなく生きることは不可能なのだから・・・・・・。」

本誌には、島尾ミホ岡本恵徳への追悼文も掲載されている。

島尾ミホについては、石牟礼道子との対談『ヤポネシアの海辺から』を読んで、選ばれし作家であることを納得している。そして「柳田民俗学をはるかにこえていく南島シャーマンの、研ぎすまされた観察眼」とまで表現している。ここでは、柳田國男について、魂よりも政治がその世界を覆っていると評価しているのだろうか。

●参照
『ひめゆり』 「人」という単位
岡本恵徳批評集『「沖縄」に生きる思想』
島尾ミホ・石牟礼道子『ヤポネシアの海辺から』
島尾ミホさんの「アンマー」
村井紀『南島イデオロギーの発生』


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