Sightsong

自縄自縛日記

東松照明の「南島ハテルマ」

2007-05-23 23:16:28 | 沖縄
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最近、「琉球フォトセッション」を開始し、沖縄写真のアーカイブズ的なものを指向されている東松照明氏。最近古本屋で見つけた『カメラ毎日』(1972年4月号)では、東松氏の「南島ハテルマ」をフィーチャーしている。

海、フクギ並木、散髪屋、老人、少年、水をためるバケツ、共同売店。
さまざまな被写体に、緊張感を持って迫っている。被写体は笑っているのか、怒っているのか、ひきつっているのかもよくわからない。

同誌の中で、身近な都市をいまに至るまで撮り続けている児玉房子氏が、東松氏のこの写真群に対してやや否定的に「総合雑誌のグラビア」「アルバムふう」と表現している。これに対し、福田定良氏は「<文明の先端みたいなところ>から脱出して、ほっとするような形で写真を撮るという、そういう撮りかたしかしないんでしょうか」と挑発している。

児玉氏の答えはない。これは普遍的で、かつ、答えのない問題なのである。

東松氏は次のように語る。

いま、問題となっているのは、国益のためとか社会のためといったまやかしの使命感だ。率直な表現として自分のためと答える人は多い。自慰的だけどいちおううなずける。が、そこから先には一歩も出られない。ぼくは、国益のためでも自分のためでもないルポルタージュについて考える。
 被写体のための写真。沖縄のために沖縄へ行く。この、被写体のためのルポルタージュが成れば、ぼくの仮説<ルポルタージュは有効である>は、検証されたことになる。波照間のため、ぼくにできることは何か。沖縄のため、ぼくにできることは何か。


背負いすぎとも、また欺瞞にさえ感じられる恐るべき自負。
そのように批判することは簡単だが、しかし、この時点から35年を経てなお重い命題である。

他者であるとは何か。所詮他人とは他者であるという、トートロジーは充分認識されているか。小さい共同体に長年属している者同士なら他者ではないのか。歴史を共有していれば他者ではないのか。ヤマトゥはウチナーにとって何者か。

様々な考えや感情の相違、非共有はあるにせよ、私は、現在こそ問われるべきは「想像力」であると強く思っている。そのひとつが、他者の経験や感情を、他者になりかわって共有しようとする意志のことである。

(集団自決に関して)「今回、岩波書店と大江さんが訴えられて、この問題が改めて出てきているわけですが、訴えている側の主張とか、あるいはそれに同調するネットでの書き込みなどを見ていると、戦後を生き延びた島の人たちに対する思いやりといいますか、その人たちの気持ちを考える姿勢が、欠落している気がするんですよ。
(目取真俊氏の発言、『終わらない「集団自決」と「文学」の課題』での宮城晴美氏との対談、『すばる』2007年2月号)

当たり前のことだし私などが言うほどのことではないが、だからこそ少しでも発言すべきだと思うのだ。
東松氏の覚悟とそのマニフェストには、とても印象付けられた。


『時の島々』の表紙にもなっている写真。キヤノン・ぺリックスに28mm、トライXで撮られたもの。



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