辺見庸『反逆する風景』(鉄筆文庫、原著1995年)を読む。
言ってみれば、小難しい人による思い付きの放言集、斜め読みで付き合う他はない。もう「どうでもいい」。「どうでもいい」のではあるが、芥のなかからしぶとい生命力を感受せざるを得ない。それはしばしば、斜に構えており、露悪や狂気にもみえるものでもあるのだが。
「世界とは、いずれ私というなまくらな目で眺められたなにものかなのであり、なにか書き記すかぎり、私がいまある場所こそが世界の臍であり、中心なのである。」
少なくとも、世界の違和感や破綻や生々しい切り口を凝視し、それにより残る痕跡がいかにつまらぬものであっても身体と脳のどこかに抱え持っている限り、その精神は、おかしなつるりとしたもののなかに取り込まれることはない。・・・と、あらためて信じるために、放言に付き合うようなものかな。
風景の一部として済ませられないものを凝視した結果、自分自身に残る痕跡を、という意味でした。
何を「抱え持っている限り」なのでしょうか?