今年亡くなった詩人の天沢退二郎さん、アマタイ。熱心な読者でもなかったけれど妙におもしろい存在だった。
宮沢賢治論は第三者的な批評家になりきれず自ら賢治になってしまっている感覚。『les invisibles 目に見えぬものたち』は凝縮されたテキストが好きだけれど、オクタビオ・パスの詩のような凝縮の強度があるわけでもなく、どうしても残る「近所の人」感。
『現代詩手帖』のアマタイ特集を読んでいて、ああなるほどと納得させられた。野村喜和夫さんは「大詩人にならなかった」人、「B級っぽくなった」人と評し、福間健二さんは「A級というのは成熟から老人を立派に生きるかどうかであって、そんなことはどうでもいいんだという姿勢がある」と喝破している。さすがなのだ。(その福間健二さんも亡くなってしまった。雑誌の座談会は倒れる直前になされた。)
平田俊子さんの「タ・イジーロの夜」はアマタイとは違う開かれかたのようで、嬉しくなってしまう。