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Sightsong

自縄自縛日記

マルク・ペストラク『ピルクスの審問』、スタニスワフ・レム『宇宙飛行士ピルクス物語』

2013-01-01 13:12:44 | ヨーロッパ

新年早々、マルク・ペストラク『ピルクスの審問』(1979年)のDVDを観る。

スタニスワフ・レムの短編連作集『宇宙飛行士ピルクス物語』の1編「審問」の映画化である。

レムの小説を原作とする映画には、アンドレイ・タルコフスキー『惑星ソラリス』、そのリメイク版(観ていない)、インドジヒ・ポラーク『イカリエ号XB1』があるが(他に何かあったっけ)、タルコフスキーの作品はもう別格としても、この映画は決して悪くない。ポーランドとソ連の製作ゆえ、同じ東欧のチェコスロバキア(当時)で製作された『イカリエ号XB1』のショボさを半ば期待して観たのだが、そんなものではない。宇宙船が「ピロ~」などといううら寂しい電子音をたててよろよろ飛ぶことはないし、セットも結構ちゃんと作ってある。

映画は原作にほぼ忠実である。

ピルクスは、ユネスコ(勝手に使っていいのか)に呼び出され、奇妙なミッションを依頼される。いくつもの民間企業が精巧なロボットを作っており、それらが宇宙での仕事に耐えうるのかどうか、試してほしいというものだった。企業はロボット開発で激しく競争しており、そのために、ピルクスは暗殺されそうにさえなる(ここが原作に追加されたエピソード)。但し、クルーの誰がロボットなのか、事前にピルクスには明かされない。ところで、ロボットは「非線形」と呼ばれている(たいへんなユーモアだ)。

さて乗ってみると、何人ものクルーが、私がロボットですが安心です、私は人間ですが誰某はロボットに違いありません、などと三々五々告げにやってくる。そして、カッシーニの輪(土星の環の空隙)に来ると、探査機を打ち出せないトラブルが起きる。実はロボットが予め誤作動を仕組んでおき、ピルクス船長に止めてもらう計画だった。ロボットの有用性が証明されれば、大量生産され、自分たちの価値が貶められてしまうと判断したのだった。しかし、思惑が外れ、ロボットはおかしな行動に出る。

エンタテインメントではあるが、面白いテーマ性も提示しているように思える。

例えば、政府や国連がコントロールできない民間企業の活動(軍事産業など)へのアナロジイ。

あるいは、人間が、感情を共有できるかどうかわからない存在と、如何に共存できるか。未来の人工知能だけでなく、民族、言語、国籍という壁が感情の共有を妨げ、それが為に無数の軋轢が生じている歴史を考えても、これは示唆的であるに違いない。

もし、その共存の相手が、個々人の心の裡にある記憶や感情の残滓(が、可視化された化物)ということになれば、これはもう『惑星ソラリス』である。その点で、この作品はレム的であると納得できた。

ところで、ピルクス船長が、搭乗前にあるクルーに対し、「神を信じるか?」と尋ねる。肯定しなければ宇宙船には乗せないという。これを、カール・セーガンが読んでいて、『コンタクト』の元ネタにしたのではないかという仮説を立ててみるがどうか。

スタニスワフ・レムの原作『宇宙飛行士ピルクス物語』(ハヤカワ文庫、原著1971年)は、大御所の故・深見弾の訳だが、どうもこれが馴染めず・・・。国書刊行会のレムのシリーズに、新訳など入っていないのだろうか。

●参照
インドジヒ・ポラーク『イカリエ号XB1』
元ちとせ『カッシーニ』


中北浩爾『現代日本の政党デモクラシー』

2013-01-01 09:57:02 | 政治

中北浩爾『現代日本の政党デモクラシー』(岩波新書、2012年)を読む。

昨年12月の衆院選直前までの状況を踏まえた本書を読むことにより、いま問題視される小選挙区制の導入経緯を振り返ることができる。前回は民主党、今回は自民党に、雪崩のように票が集まった。勿論、それは「民意」を反映したものではないと批判されるわけだが、ある程度は予期された未来でもあった。

もとより、リクルート事件に象徴されるような金権腐敗が、中選挙区制に起因するという分析がなされていた。また、比例代表制や中選挙区制によっていくつもの政党が並び立つと、政策は政党間の談合で成立するような構造になってしまい、それが政治的決定力を欠く原因であるともされていた。

1994年、細川政権での選挙制度改革を主導した小沢一郎が指向した二大政党制は、それにより権力を得る政治集団の決定力を増やすためのものだった。小沢にとっては強い政治的リーダーシップの創出こそが狙いであったのであり、彼の中では「政治の主役は有権者ではなく政治家であり、民意の代表は二義的な問題に過ぎない」とする本書の指摘は重要である。(一方、細川護煕は「穏健な多党制」を指向しており、二大政党制を過渡的なものとして捉えていた。しかし、のちにこのことを悔んでいる。)

この流れが、必然的に、民主党を生み、政権交代を実現し、少数者しか支持していない自民党の政権奪取という大矛盾を作り出した。

小沢一郎は、民主党の政権運営能力を危惧し、政権交代前に大連立をもくろみ失敗した(福田政権時)。このときに、消費税増税などの必要悪に道筋をつけておこうとしたのだという。しかし、それはトレンドを手前勝手に解釈した暴走というものである。

小選挙区制は、政党への包括的な委任ではなく、個別政策への有権者の支持を反映しやすいものであるとも解された(ここに、小沢ビジョンとの乖離がある)。マニフェストは、そのような文脈で登場してきた。しかし、ふたを開けてみると、有権者は細かいマニフェストを読んで政党を選ぶわけでもなく、結果的に、それは選挙のためだけのイメージ戦略に堕した。政治的なビジョンを共有しない烏合の衆・民主党が、マニフェストを実行できなかったのも当然のことだったと言えるのかもしれない。

興味深い分析がある。衆院選における比例代表についても、二大政党化が進んでいるというのである。この理由として、著者は、主戦場たる小選挙区での争いに有権者の注目が集まり、比例区での有権者の投票行動にも影響を与えるからだという。このことは、今回の選挙におけるメディアの社会的責任にも関連するような気がする。事前に自民党圧勝と煽ったことは何をもたらしたのか、ということだ。

二大政党化による政治的決定力の獲得とはいっても、結局は、政党間ではなく、政党の中で調整と交渉と談合が行われるわけであり、そもそもの狙いは間違いであったというべきだろう。それ以上に、多様な意見が圧殺され、極端な政策を掲げる政権が現れるという、あまりにも大きな危険が出てきている。

本書の言うように、衆院選についても、比例代表制の比重を高めていくべきだろう。現在の自民党政権は、それをしたがらないだろうが。

●参照
2012年12月衆院選
小林良彰『政権交代』
山口二郎『政権交代とは何だったのか』
菅原琢『世論の曲解 なぜ自民党は大敗したのか』
西川伸一講演会「政局を日本政治の特質から視る」