Sightsong

自縄自縛日記

青空文庫の金史良

2012-09-29 09:21:34 | 韓国・朝鮮

青空文庫には金史良(キム・サリャン)の小説がいくつか収録されている。そのうち楽天のkobo touch用のサイトで無料ダウンロードできるのは5作品である。

読み終わってから気がついたのだが、全て底本は講談社文芸文庫版である。積ん読になっていた本だ。意味がないかと言えばそんなことはない。快適に読むことができたのだから。いろいろ批判のあるkobo touchだが、このように青空文庫の作品を無料で読むことができることは嬉しい。

「荷」(1936年)

ごく短い短編ながら、低湿地の崩れかかった小屋に住む「尹さん」の人間臭さを描き出している。テーマは、生命力と儚さか。

「尹主事」(1941年)

「荷」と同様に、半狂人の老人の人間臭さを短く描く。老人の卑屈さの中に「最後の火のほとぼり」を見出す主人公。

「玄界灘密航」(1940年)

「玄界灘」とは密航の代名詞であった。日本支配下朝鮮から「内地」への密航である。北九州に住む主人公は、密航団が摘発されたという新聞記事を読んでは、「監視されているような、いやな気持」になり、そのためか、目と鼻の先の玄界灘の海辺にはあまり出かけない。それでもある日、唐津の海岸で、移住してきた女性たちが白い着物で貝殻を拾い歩く美しい光景を目にする。

J.G.バラード『結晶世界』を思い出すような鮮やかな描写である。

「故郷を想う」(1941年)

「内地」に渡って十年。主人公は、故郷の平壌のことを想う。亡くなった姉のこと、帰省してほしくて庭にトマトや何やをあきれるほど育てる老母のこと。

切迫感のあるセンチメンタリズムを持って、主人公は「こうして私はいつも朝鮮と内地の間を渡鳥のように行ったり来たりすることになろう」と呟く。北朝鮮を抽象的な「仮想敵」としかとらえない政治家やメディアの人間にこそ、読んでほしい。

「天馬」(1940年)

朝鮮に戻り、まるで日本で素晴らしい評価を得てきたかのように嘯き、日本を権威のように使って文士ぶる主人公。横柄な日本人と卑屈な主人公との対比が怖ろしい。金史良はどのような気持ちでこれを書いたのだろう。

主人公はぐでんぐでんに酔い、のっぴきならぬ袋小路に自らを追い詰めていく。

「彼はこの悲痛さを打消すように妙に喉にからんだ甲高い声を出して一人でに笑ってみた。だが彼は自分の笑い声にびっくりして慌てて肩にかけていた桃の枝を胸に抱きしめじっと息をころした。」

「朝鮮に出稼ぎ根性で渡って来た一部の学者輩の通弊の如く、彼も亦口では内鮮同仁(日本帝国主義の植民地政策の一つで、朝鮮民族を日本人に同化させるためのスローガン)を唱えながらも、自分は撰ばれた者として民族的に生活的に人一倍下司っぽい優越感を持っている。」

「内地人と向い合った時には一種の卑屈さから朝鮮人の悪口をだらだらと述べずにはおれない、そうして始めて又自分も内地人と同等に物が云えるのだと信じ切っている彼である。」

ここには、自己諧謔的な視線とともに、それだからこそ、非人間的な権力構造やナショナリズムを透徹する視線がある。

金史良は、朝鮮戦争が勃発すると北の軍隊に従軍し、36歳で戦死した。李恢成は、事あるごとに金史良の小説を評価している。

●参照(在日コリアン文学)
金石範『新編「在日」の思想』
金石範『万徳幽霊奇譚・詐欺師』 済州島のフォークロア
金石範講演会「文学の闘争/闘争の文学」
金達寿『玄界灘』
李恢成『沈黙と海―北であれ南であれわが祖国Ⅰ―』
李恢成『円の中の子供―北であれ南であれわが祖国Ⅱ―』
李恢成『伽�塩子のために』
李恢成『流域へ』
朴重鎬『にっぽん村のヨプチョン』
梁石日『魂の流れゆく果て』