山本義隆『熱学思想の史的展開』全3巻(ちくま学芸文庫、2009年)の完結編・第3巻を読む。1冊読んでは間をおいてまた1冊、結局、第1巻を読んでから2年半が経ってしまった。
熱と仕事の互換性に到達した天才たちは、いよいよ目覚ましい展開を見せる。互換性だけではなくそれらの組み合わせを定理とし、定式化することが如何に難しく、そして次に向けての如何に大きなステップであったか、ということが納得できる。そして、実証的なプロセスの中で、<熱素>という奇妙な概念は葬りさられる。気体分子運動論というミクロな力学と結合することは、いまの目で見れば当然のようにも感じられるが、そんな簡単なことではなかったのである。
議論は、状態関数としてのエントロピー導入、相平衡、エントロピー以外の関数の導入、絶対温度などと進んでいく。かつて熱力学をかじった自分ではあるが、ここまで来ると、もう丹念に数式を追う気力を放棄している。どんな教科書でも、突然、状態図や、エンタルピー、ギブスの自由エネルギー、ヘルムホルツの自由エネルギーといった関数式がトップダウンで登場し、感覚的な理解に至らなかった経験があるからだ。本書のように思考の歴史を追跡する方法で学んでいたならば、また違っただろう。なんだか悔しい気分だ。
実際に、エントロピーの概念は、(キャッチフレーズ的に使う人はいても)広く理解されているわけではない。本書によれば、多くの学者ですら無理解甚だしいことがあり、特にエントロピー増大の法則(熱力学第2法則)が「エネルギーの散逸」にのみ求められ、物質については無視される事例が多いという。典型的な例として、エネルギーについてのみ第2法則を語り、物質に対しては原理的にリサイクルが可能と説いていた故・竹内均の言説が挙げられている。これを「大量生産・大量消費をよしとする成長経済を支えるイデオロギーではあっても、物理学的にはまったくの誤りである」とばっさりと批判するのは痛快でさえある。著者が大学アカデミズムの世界に身を置いていたなら、ここまで書くことはなかったであろう。これは単なる理解度の話ではない。文明や産業に対するスタンスの透かし彫りになっているのである。
(ところで、竹内均は寺田寅彦の孫弟子であり、私は大学院時代、竹内の弟子格の先生のもとで勉強した。研究を続けることをそこで完全に放棄した自分にはこんなことを言う権利はないが、自分が寺田寅彦の曾々孫弟子であったかもしれぬと思うと、妙に愉快になる。)
著者があとがきで書いているように、確かに、熱学はもともと世界と宇宙を相手にせんとした学問体系であった。世界はノイズの集合体、ノイズそのものである。ノイズを可能な限り排除した抽象の純粋科学とは、出発点から異なるものであった。
間もなく、山本義隆氏の最新刊『福島の原発事故をめぐって』(みすず書房)が出る(>> リンク)。科学と産業の歴史的な変貌について説くのか、それともエネルギー論の面から発言するのか。実は心待ちにしているのである。