ピーター・ブルック『注目すべき人々との出会い』(1979年)は、G.I.グルジェフの思想を映画化したという興味はもとより、ピーター・バラカンが「存在理由を追い求める男の物語といったらクサそうだけど、とにかく内容も演技も撮影も美しい映画だ」(『ミュージック捜査線』、新潮文庫、1993年)と書いていたこともあって、随分と観たかった映画である。グルジェフの自伝を読むのとあわせて、その気になってネット上で調べたら、簡単に安いレンタル落ち品を入手できた。もう人気がないのかな。
冒頭に、「20年おきに行われる」音楽のコンテストの場面がある。音楽家たちが集まり、自分の音楽をそれぞれ披露する。大きな岩山に音楽が共鳴した者が、もっとも優れた音楽家とみなされる。笛や弦楽器などのあと、ホーミーのような倍音を響かせる歌い手の声が、何度もこだまする。原作にはない場面であり、楽器や奏法への興味も含めて素晴らしい導入部である。
その後は、「サルムング」という秘教集団の存在を探し当て、僧院に到達するまでのビルドゥングスロマンである。ひとつひとつのエピソードは原作のピックアップだから、「神はいまどこで何をしておられるか」という問いに対する奇妙な議論の場面など、映画だけを鑑賞していたのではよくわからないに違いない。原作を読んで笑ってしまった、「砂嵐を避けるために長い竹馬に乗る」場面も採用されているが、いかにも中途半端だ。
ただ、最後の僧院での舞踏には眼を奪われる。これもグルジェフから発展したワークスの成果なのだろうか。また、ロケがアフガニスタンで行われた風景も素晴らしい。
そこかしこに特筆すべき要素があり、映画としても評価したい。しかし、グルジェフ的にどうか? 「サルムング」の高僧が、辿りついたばかりのグルジェフに対し、「狼と羊とを同時にあわせ持つのだ」と説く。原作では冒頭にグルジェフが書いている表現であり、ピーター・ブルックもこのメッセージを発信したかったに違いないが、ならば映画全体をもっと内省的にしてもよかったはずだ。
自らに試練を課し、現実的な障壁を現実的に解決し、絶えず頭と身体を機能させる、といったグルジェフ的なあり方からいえば、たまたまではあるが、上海からの帰り便で観たクリストのドキュのほうがむしろそのような成果だ。
『ランニング・フェンス』(1976年)は、カリフォルニアの牧草地帯にナイロン製のカーテンを40kmも這わせるという、クリストのプロジェクト遂行のプロセスを記録したものだ。「あんなものはアートではない」という地元の反対を説得し続けるクリストの姿は感動的ですらある。
なお、これも以前から機会があれば観たいなと思っていた作品だが、こんな旧作のドキュをプログラムに加えるとは、ANAの担当者の趣味も悪くない。もっとも、映画の開始時間が決められていた昔とは違い、オンデマンド・多プログラム化したために、旧作のソフトに声がかかっているとも言うことができる。
ところで、キース・ジャレットもグルジェフ作品をソロピアノとして記録している。『祈り~グルジェフの世界』(ECM、1980年)であり、時期的にはピーター・ブルックの映画と同じだ。西側の人間がグルジェフを求めた、という時代性のことを忘れるわけにはいかない。
「あり方」がグルジェフであり、音楽だけを取り出して評価するということは難しい、という意見がある(>> 山谷慎一『キース・ジャレットとグルジェフ ── 「音」の彼方ですれ違うもの』)。実際、他のキースのソロ・ピアノとは性質が大きくことなっており、『ケルン・コンサート』で見せたような過度なセンチメンタリズムや『ヴィエナ・コンサート』で見せたような抑制の愉悦はない。淡々と<ワークス>を実施しており、しかもそれが音楽のみという、危うさがある。ただ、奇妙な魅力がある作品である。