四季の彩り

季節の移ろい。その四季折々の彩りを、
写真とエッセーでつづって参ります。
お立ち寄り頂ければ嬉しいです。

挽歌  - 善磨 と ふく -

2021年12月18日 09時47分50秒 | 短歌
   挽歌
      - 善磨 と ふく -


この稿は、ある短歌誌に載せたものですが、私と短歌との関わりの一齣ともなっていますので
少々古いものですが掲載させて頂きます。
私を短歌の世界へ導いてくれた義理の叔母に当たる(細君の母の妹)、荒川ふくへの挽歌も
含まれていますので掲載したいと思います。



  ☆遺棄死体数百といひ数千といふ
          いのちふたつもちしものなし
  


 の歌、一首を含む土岐善磨の歌集「六月」は太平洋戦争前夜に刊行されました。これは朝日新聞の論説委員としてリベラルな論説を掲げ続けた氏の、退社記念として編まれた歌集でもあります。この一首は、当時の時代背景の下、ヒューマニズムの極致として大きな反響を呼びました。しかしこれによって、時局非協力者として氏が運営にあたっていた「大日本歌人協会」は解散を余儀なくされ、氏自身も歌壇を追われることになりました。

 戦後の日本は、戦争協力の手垢のつかぬ文化人として土岐善磨に出番を与え、多くの文化的な事業、仕事が持ち込まれました。この一つに氏を講師とする大短歌教室がありました。戦前から「生涯の歌の師」と善麿を慕い続けた荒川ふくは、ためらわずこの教室の受講者となりました。荒川はお腹を痛めた四人の何れの子も、自ら看取るという逆縁の辛さを抱えた方でした。荒川はそんな思いを秘めながらも、辛さも、寂しさも、悲しみも昇華し、おおらかに包み込んでくれる歌の世界があることを、この教室で善磨を通して、さらに学び深めた一人でした。善磨の説く「市井に暮らす人々。その生活と思いに寄り添う歌」に没頭し、精進を重ねる真摯な生徒の一人でもありました。荒川の半生は、この辛さと、哀しみに耐えつつ、師と仰ぐ土岐善磨に歌を学び、憧れと慕う心の相克を歌に結実させた歩みでもあったと考えています。

  ☆師の君の申されし事いまにして 険しき歌の道に戸惑う

 この歌は、この当時の荒川の心情を映して余りあるものと考えます。また、荒川の歌は四季の移ろいを敏感に捉え、花々に、一木一草に寄せた、たおやかで、豊な感性を滲ませ、身内びいきを差し引いても、少なからぬ感動を与えてくれました。
 私は、30代の初め、たまたま義理の叔母にあたる荒川に差し上げた手紙が縁になって、歌の世界に参加させて戴きました。気負わず淡々と詠み続け、しかも行間に溢れる情感と、抑えた情念を滲ませた歌には、歌の先輩として多くを学んで参りました。

 師、土岐善磨の三年忌の墓前に捧げるとの思いから出版された、荒川の第一歌集「かずら集」は、黄泉の国で先に暮らす、師への何よりの土産になったのではないかと、考えています。師と共に歌を詠み、語らう荒川の姿を思い浮かべつつ、御冥福を祈りたいと思います。
 今回は、これらの思いと共に、荒川への挽歌として詠って見ました。「それでいいんだよ。気負わず自然に詠みなさい」との荒川の、かの日の言葉を励みとして、拙い歌を挽歌として墓前に捧げたいと思います。



        風花の舞い行く街を黄泉に向け 一人旅発つふくの幻

        叔母偲ぶ心に香るしだれ梅 導きくれし歌を抱くも

        一樹なき街に舞いたる風花に 叔母と歩みし高野偲ばん

        善磨をただひたすらに慕いたる ふくの生涯清清しく

        師の君のお傍に行くが望みとう 在りし日語る叔母を偲ばん

        慕いたる 激しさ故の純情を 歌に託せし叔母の旅立ち

        啄木を庇いし善磨 その想い 継ぐに険しき叔母の思いも

        憧れと慕う想いの相克を 歌にぶつけしふくの境涯

        なしたる子いずれも見送る叔母の耳 師の君語る歌は響くと

        天翔ける師の君追いて旅立つや 叔母の一途の思いかなうも


          
                       初稿 平成13年3月20日

コメント (16)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする