四季の彩り

季節の移ろい。その四季折々の彩りを、
写真とエッセーでつづって参ります。
お立ち寄り頂ければ嬉しいです。

「美味しいコーヒー」

2019年11月23日 11時25分33秒 | 日々の歩み
過日、久しぶりに気持ちよく晴れたウイークデー。勤務もなかった午前中のこと。
季節もよくなったことでもあり、たまには散歩に出かけようと細君と出かけてみました。
いつもの遊歩道から、海岸道路へと辿りました。

この季節は、花の端境期でもあり、目に付く花もめっきり少なくなり寂しい限りです。
それでも、咲き残る秋薔薇、酔芙蓉、晩秋を彩る山茶花、皇帝ダリア、菊、さらにゆずや
柿の実りなどを眺めつつ、デジイチスケッチしながらゆったりと歩いてみました。









海岸通りに出ると、ウイークデーにも関わらず若い人をはじめ多くの方がジョギングや、
散策をしていました。また、ゆったりと釣りを楽しんでいる人達、さらな東京湾を挟んで
横浜みなとみらいのランドマークタワーも眺められ、ご機嫌な散歩道でもあります。
この日は、幽かではありますが、富士山も眺めることが出来ました。







散歩のあと、走水の湧水を取りに車で出かけてみました。駐車場も比較的すいていましたが、
先客が結構いました。行列ができるほどではなく、ペットボトルと携帯用のボトルに
3リットルほど汲んできました。

走水湧水は平成20年3月26日、よこすか水道給水100周年記念事業のひとつとして、
「ヴェルニーの水」の提供を再開されたとのこと。また、この水は、走水水源地の水を
膜ろ過設備によって浄水したもので水道法に基づき、塩素を含んでいるようです。
なお、走水は、日量約2000トンの地下水が年間を通じて取水できる横須賀市内唯一の
自己水源地とのことです。



この水で、さっそくコーヒーを入れてみましたが、味音痴の私でも、水道水よりかなり
美味しいと感じました。
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河口湖、箱根仙石原へ

2019年11月09日 14時05分14秒 | お出かけ
月初めの連休明け、近くに住む次男夫婦から「河口湖の紅葉を見ながら、ほうとうを食べに行かないか」
との誘いがあり、細君と相談し一泊二日の予定で行って参りました。

宿は台風の風評被害で観光客も減っているとのことで、多少でも力になれればとのことから箱根エリアを
選び、箱根仙石原プリンスホテルに予約しました。
朝7:30分に出発し、我が家の車で運転は自称プロの次男に委ねました。横横道路から、東名高速を経由し
中央道から河口湖についたのは11:00少し前でした。
途中、東名高速に入る手前で自動車事故があり一時間近くの渋滞があった割にはほぼ予定通りに着いた
ことになります。



かつて現役の時代、河口湖には会社の保養所があったことから、長いこと子供たちも含めて、年に3~4回は
二泊三日で滞在したことがありました。富士山の雄姿と共に子供たちにとってもなじみの場所で、ほうとうも
行けば必ず味わったもので、記憶に刻まれた味と思っています。
なじみの「ほうとう不動」は健在で、建物の外観も当時のままで、懐かしさがこみ上げてきました。思えば
4年ほど前に細君と、このほうとうを食べに来た時以来で、次男にとっては20年ぶりとのこと。





11:00開店とのことで、既に何人かは開店待ちの状態でしたが即入店できました。
私たちが入店し、注文し終わる頃にはお店のテーブルがほぼ埋まり、この店の人気のほどを改めて知ることに
なりました。メニューは「不動ほうとう」一種類でしたが、サイドメニューとして「馬刺し」「煮込み」
「お新香」等が用意されていました。
味はかつて味わい、記憶にしっかり刻まれている「カボチャほうとう」の懐かしい味でした。カボチャ、シメジ、
白菜、ゴボウ、ニンジン等々の野菜が盛り沢山で、肉厚でねじれたほうとうと絡み合い仄かな甘さの中に、
しっかり味付けされた深い味わいは「本当に美味しい」の一語でした。



ほうとうをしっかり味わったのち、河口湖畔にあるハーブ館を見学し、お土産を買い求めた後、次男と久しぶりに
バッティングセンターでバッティングに挑戦しました。30球のうち7割程度は前に飛びましたが、芯による会心の
当たりは5、6球という状態でした。年に二回ほど老骨に鞭打って、地域の試合に参加している割には体力の衰えを
実感することになりました。





河口湖周辺の紅葉はすでに始まっていましたが、車窓からの紅葉見物にとどめて、一路箱根仙石原に向かいました。
ホテルにチェックインしたのち、ホテルの近くにある「仙石原すすき草原」に行ってみました。
ここは「かながわの景勝50選」「かながわの花100選」にも選ばれた景勝地で、この季節、黄金色に波打つ草原から
金時山などの外輪山と湿原が調和した風景を見ることが出来ます。草原の中央にまっすぐ伸びた散策路の長さは、
約700メートルほどですが、台風による土佐流のためか約150メートル程で通行禁止となっていました。
あかね空を背景に黄金に染まるススキの草原は詩情にあふれ、まさに絶景でした。





ホテルに戻り夕食まで時間もあったことから、大浴場に向かいました。大浴場はシンプルなしつらえですが、
ゆったりとくつろげる露天風呂と、内風呂でした。ただし最近のこの種のホテルはサウナが併設されているのですが、
ここには残念ながらありませんでした。
ホテルの部屋は52㎡と広々としており、バルコニーからは目の前に広がるゴルフ場と、雄大な箱根外輪山が
眺められ満点の眺望でした。また施設自体は多少使用感はありますが気品が保たれており、レトロ感もあり素敵でした。









食事は、朝夕の二食付きにしましたが、レストランからの自然の眺めもゆったりとして見ごたえがありました。
料理も和洋双方を揃えたビュッフェスタイルで、それぞれの食材の味を大切にした丁寧な味付けが感じられ、
とても美味しく頂きました。また、今回は結婚記念日と予約の際、事前にお伝えしておきましたが、
何人かのスタッフさんから声をかけて頂き、写真部所属といわれるスタッフさんに記念撮影までやっていただき
感動ものでした。また、スタッフの皆さんの笑顔と随所に行き届いた丁寧な接客に触れ心癒されました。
なお、ベッドもシモンズが使われ寝心地も満足度大で、ギフトショップのアパレルグッズの充実ぶり、喫煙所の
清潔さ等々、旅の品質を高めてくれました。





ホテルをチェックインしたのち、次男夫婦は訪れたことがないという「箱根ガラスの森美術館」に向かいました。
私たちは箱根に来るたびにこの美術館と、成川美術館は結構訪れていますが四季折々の景観と共に企画展も魅力が
あり行ってみることにしました。

この美術館には、ヨーロッパの中世貴族が熱狂したヴェネチアングラスの名品約100点が展示されていますが、
庭園は紅葉にはまだ早く、少し黄葉が見える程度でした。
ヨーロッパ貴族の別荘を模した欧風庭園の広がる館内では、世界のガラス小物アンティークを販売するショップや、
イタリア人歌手によるカンツォーネの生演奏を行うカフェレストランで、お食事や喫茶が出来ます。

庭園の木の橋を渡ったところに建つ「ヴェネチアン・グラス美術館」には、アドリア海の王女と謳われた往時の
ヴェネチアン・グラスが展示されています。ガラス職人が心血を注いだ卓越した技と、贅を尽くした美の
極みともいえるレースグラスをはじめ、多くの作品を見ることが出来ます。まさに繊細優美な輝きに
心奪われる思いです。



また、庭園からヴェネチアン・グラス美術館エントランスへ続く橋にかけられた、高さ約9m、全長約10mの
クリスタル・ガラスのアーチ「光の回廊」は、約16万粒のクリスタル・ガラスが箱根を渡る風にゆれ、
様々な表情を見せてくれます。この季節、太陽光と風向きの関係で、一段と眩い輝きを放つようです。



水車が重厚で独特の景観を見せる「箱根ガラスの森 アチェロ」では、自然の美味しい贈り物、
カナダ産メープルとジャム、そして深い味わいのチョコレートを試食し、お土産を買い求めました。



今回の企画展は「アドリア海の新しい風、芸術と技の結晶」と銘打って、ピカソ・シャガールたちの
ヴェネチアン グラス彫刻展を催していました。

20世紀中頃、ガラスの美しさに魅せられたエジディオ・コスタンティーニの思いに賛同したパブロ・ピカソや、
マルク・シャガールといった芸術家たちの独創的なデザインを、千年の歴史を誇るヴェネチアン・グラスの
巨匠たちの卓越した技で「ガラス彫刻」に結実させたと言われています。





箱根路は台風被害で所々で通行禁止がありましたので、帰路は御殿場経由の東名高速を選びました。
御殿場ではアウトレットに立ち寄り、次男夫婦が是非見たいというスーツ、靴、バック、カジュアル
衣料等のお店を見て回りました。



広大なショップの品ぞろいと、ブランド品の値引きに興味を
魅かれつつ時のたつのも忘れるほどでした。結構歩き回ったため疲れも出たため帰路につきました。
内容の濃い美味しく思いで深い旅となりました。




箱根仙石原のススキ、およびほうとう等に寄せて、短歌を詠んでみました。




☆箱根なる仙石原の山すそを黄金に染めてススキ燃え立つ
☆すすき穂は仙石原に燃え立つや 黄金の焔 山を覆いて
☆夕映えに穂を染め光る群れススキ 滅びしものの矜持忍ばせ
☆夕映えにススキ千里と山埋めて 滅びに向かうざわめきも無し
☆かくれんぼ「もういいよ~」を言わぬまま ススキの原に眠りし過去も
☆夕あかね 空に連なるススキ原 「もういいよ~」と そっとつぶやく
☆山梨の舌になじみしほうとうを 吾子らと共に懐かしみおり
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「終焉の薔薇」ヴェルニー公園へ  

2019年11月04日 19時10分13秒 | 日々の歩み
過日、終焉とも言われた薔薇を見に細君と共に、横須賀ヴェルニー公園行って参りました。
関東地方に相次いで上陸した台風15、19号の暴風雨にたたかれた約2,000株の公園の薔薇は、
かなり悲惨な状況になっていました。



それでもすっくと立ち上がり、健気に咲き継ぐ薔薇。それはウイリアム・シェークスピアの戯曲
「ハムレット」の台詞にある「儚い命の象徴」ではなく、悲劇を乗り越える花の命の
たくましささえ感じました。

咲き残る薔薇のデジイチ・スケッチを掲載したいと思います。

ジュビレ・デゥ・プリンス・ドゥ・モナコ


ジャルダンドゥフランス


ルージュメイアン


ラブミーテンダー


エレン・ウィルモット


ホワイトウイング


ゴールドバニー


ソフィーズローズ


また、ヴェルニー公園のすぐ隣から出向する「YOKOSUKA軍港めぐり」はウイークデーにも関わらず、
長蛇の列が並び、相変わらずの人気を誇っていました。これは、日米の艦船を見られる日本唯一の
クルーズと言われています。








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「地上の星達へ」

2019年11月02日 07時21分20秒 | 日々の歩み

「コンピュータ・ソフトウエア開発と短歌」  
    ある記念誌への投稿文

私達は昭和の時代に生を受け平成、さらには令和の時代に生きながらえてきましたが、思えば昭和の戦後史を、そのまま身体に刻んできた世代とも言えます。人生百年時代とも言われますが健康余命を考えると、その終焉は目前と言える今、自らの来し方の一端を意識ある内に記し「高齢化時代に生きる」一助になれば幸いと思っています。

私は総合電機メーカーの本社に入社し、コンピュータ事業部に所属して以来、コンピュータの黎明期から約40年にわたって、主にホストコンピュータのソフトウエア開発業務に関わって参りました。
また、コンピュータと言うデジタルの世界に身を置きながら、アナログの象徴とも言われる「短歌」にも取り組んで参りました。その過程で新元号「令和」の出典となった「万葉集」や「新古今集」等にも親しみ、多くの和歌から民族詩の源流等を学んできました。

その流れの中で、個人的な興味もあり、パソコンを使っての「短歌作成システム」の開発にも取り組んでみました。当時はAI技術も未だ確立されていない時代でしたので、短歌の素材となる五音、七音の語彙でデーベースを構築し、新たに入力した言葉とを結合し、パソコンの確率算定機能を駆使して、自然文の合成を行うという初歩的なロジックのシステムでした。
この開発には仕事の合間の休日等を用いて三か月ほどを要しました。この経緯と結果は、私の短歌の師でもありました野村泰三氏(ヤクルト本社役員)との共著論文として月刊誌「短歌現代」(一九八五年二月号)に発表させて頂きました。歌壇からは少なからぬ好意的な反応もあったものの、大半は激しい批判の嵐に見舞われ、結果的には第二弾の改造システム開発は断念せざるを得ませんでした。

その過程で、もう一人の短歌の師と仰ぐ紅林茂夫氏(国際経済研究センター理事長、エコノミスト)の「短歌は作り出すものではなく、内奥の叫びが昇華し生まれいずるもの」との教えに深く魂を揺さぶられました。師の勧めもあり「月の歌人」と言われる明恵上人の短歌を「明恵上人和歌集」等を通して、改めて深く学ぶ機会を与えられ、短歌の神髄に少し触れる想いが致しました。

そんな中で、四十代の後半、構成メンバーが百二十名を越える携帯電話iモード関連のビックプロジェクトの統括マネージャーを拝命しました。ご存知の方も多いと思いますが、iモードとは携帯電話を用いて、インターネットを経由し、どこからでもコンピュータに繋がる技術です。今では当りまえですが、当時としては世界初の技術であり、画期的な夢のシステムでもありました。

受注総額五〇億円超のプロジェクトで、ミレニアムを挟む三年余にわたる業務は、私自身のビジネスマンとしての在り方、生き方が問われる厳しいものでした。プロジェクトマネージャーとして開発の第一線に立ち、客先や開発会社とは技術、納期、予算面等々からバトルにも似た激しい折衝を重ねて参りました。その流れで納期死守の観点から、今では許されませんが、メンバーには月150時間余の残業を強い、自らもその渦中に身を置きながら業務を遂行して参りました。

システム開発の最盛期はウイークデーの大半を、ウオーターフロントのオフィスに籠城し「不夜城の城主」との揶揄もされました。業務の過酷さ、客先からの無理難題等もあり、信頼する直属の部下のチームリーダーや、ホープの若手技術者の退職等が重なる辛く厳しい経験も致しました。統括マネージャーとして自らの力量不足を反省する日々が続き、自ら吐く言葉に刺々しさが増し、時として愕然とする思いに陥ることがありました。

そんな日々の中、たまに帰れる終電車に飛び乗り、通り過ぎた駅の灯かりが一つ一つ消えていく時、下手な短歌がこぼれる様に生まれる場面がありました。また、コーヒーブレークに、メモを片手に短歌の三十一音律に思いの一端を吐き出す。それは、ささやかな癒しでもありました。さらに、細君の献身的なサポートも痛む心を支え続けてくれました。

このような状況下で生まれた短歌群から、三首を自選し紹介致します。
 ●もの創る誇り支えに開発の 現場に一人 修羅として立つ
 ●命をも人生さえも賭けてなお 悔い無き仕事とつぶやきてみる
  ※この短歌は石川啄木の短歌「こころよく我にはたらく仕事あれそれを仕遂げて死なむと思ふ」への返歌として詠んだものです。
 ●くちなしの匂い仄かに漂えり 眠り忘れし石の街にも

三年余にわたる綱渡りにも似た苦闘の末、所定の納期と品質でプロジェクトを完成し、なんとか納品することが出来ました。その打ち上げパーティーで、達成感と充実感に満ちた至福のひと時を、苦労を共にしたメンバーとともに味わい、分かち合うことができました。これは、私の半生でも戦友、さらには、生涯の友を得る貴重な体験となりました。この友らとの交流は今でも続いています。

当時のコンピュータ業界、特に携帯電話関連のシステム開発に関わる業界は、生き残りをかけたし烈な競争下にありました。二年前の技術は既に陳腐化し、日々の進化が求められる状況。その中で進化し自己変革ができない企業と技術者は間違いなく淘汰されていきました。消耗戦といえる過酷な状況は、まさにブラックと言える状況ですが、世に喧伝されるブラック企業か、否かを分けるキーワード。それは「使命感を支える誇りをメンバー自身が持ちうるか否か、その成長と進化を促すリーダーの指導と、メンバーを使い捨てにしない熱い心くばりが、そこに存在するか否か」だと考えます。

個人的なホームページに載せた短歌とエッセーは、そのような状況下で紡ぎだされた「つぶやき」や「うめき」の集積でした。これら自作短歌を歌集として出版することは、当初は考えていませんでした。しかし、汎用コンピュータの黎明期から過酷な開発現場の状況に耐え、先端技術の創造に果敢に挑戦し、今日のIT産業隆盛の礎を作った技術者達。「地上の星」と言える彼らの崇高な歩みの一端でも、この著書を通して記すことができればとの思いから、出版を決意しました。また、細君からの勧めも背中を押してくれました。

歌集の名称は、私の作詞した「旅の途上(なか)」より採りました。その歌詞は過酷な業務の中で傷ついた心を抱える、同僚たちへのエールとして紡いだものでした。ネットに載せた歌詞がたまたま、工藤慎太郎さんの目に留まり、彼のアルバム「ふたつでひとつ」でCD化されました。彼は第三九回日本有線大賞において新人賞を受賞した若手歌手ですが、ライブ等では今でも歌い継がれていると伺っています。

その後遭遇した、多くの過酷な開発プロジェクトで、共に戦うシステムエンジニア達の誇りに触れ、自らの覚悟と志を改めて自問して参りました。その厳しさ、誇らしさを短歌に表現する。その営みのなかで、カタルシスと共に、癒しも味わい、新たな活力を得てきました。そこから短歌は厳しい状況に立ち向かう、一つの糧であり武器になることを実感して来ました。そして、ノーベル文学賞作家、大江健三郎氏の唱える「文学の持つ魂の治癒力」の一翼を、短歌も担い得ることを、実感として学ぶことができました。

今後も、短歌や作詞を通して、後輩たちへエールを送れればと思っています。なお、2016年5月に長野県情報サービス振興協会に招かれ「コンピュータ・ソフト開発と短歌」との演題で一時間ほどの講演をさせて頂きましたが、郷里の先輩諸兄へのささやかなエールになったら幸いと思っています。

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