昨日9日は、長崎では80回目の原爆の日を迎え、爆心地に近い平和公園では、長崎市主催の「長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」が開催されました。鈴木市長は平和宣言の冒頭で、対立と分断の悪循環で各地で紛争が激化しているとし、「このままでは、核戦争に突き進んでしまう」と危機感をあらわにしました。
長崎で被爆した故・山口仙二氏が国連本部で訴えた「ノー・モア・ヒロシマ ノー・モア・ナガサキ ノー・モア・ウォー ノー・モア・ヒバクシャ」の言葉を引用し、「被爆者の思いの結晶そのもの」と強調しました。また、「長崎を最後の被爆地とするためには、核兵器廃絶を実現する具体的な道筋を示すことが不可欠」だと求めました。この求めを私達も心に刻んでいきたいと思います。
「百合 カサブランカ」
この八月は、青春前期の私に多くの示唆と、想いの在り方を導いてくれた、優れた研究員でもあったあった友の命日でもあります。長崎での胎内被曝という十字架を生まれながらに背負い、AI黎明期の人工知能の研究の傍ら核兵器廃絶を訴える運動に、まい進した友の壮絶な闘いを今でも鮮明に思い浮かべることができます。キリスト者でもあり「怒りを祈りに」と、祈ることの神髄を身をもって教えてくれた友。常に襲ってくる痛みと闘いながら研究と、核廃絶運動にひたむきに取り組みながら短い青春を閉じました。友が死を覚悟しながら取り組んだ運動は、昨年の「日本被団協のノーベル平和賞受賞」で一つの結実を見ました。しかし、世界の現実は未だ道半ばの感がいたします。
「咲き初める 高砂百合」
一方、私事になりますが、細君の母が身罷ってから、私たち夫婦にとっては母親代わりに接して頂いた細君の従妹の葬儀が昨日あり、炎暑日の中横浜の斎場まで出かけて来ました。その従妹の事は本ブログでも折に触れて紹介させて頂きましたが…、98才の大往生でもありました。細君を通して、私も親しくお付き合いさせて頂き、私の短歌の理解者で、幾たびか細君共々一緒に旅行などさせて頂く機会もありました。ただ、自分史の多くを語らない方でしたが、問わず語りに伺った限りでは、明治神宮で学徒出陣で想う方を見送ってから、生涯を独身で通した人でもありました。
三大商社の一つの経理部門で、文字通り戦後の商社の隆盛を財務で支え、女性でありながら部長職まで担った方でもありました。慈愛に満ちた眼差しを持つ一方、「ダメなものは駄目」を静かに徹底する姿勢を定年まで貫く頑固さもありました。「生き馬の目を抜く」と言われた商社の中で、財務の中枢を歩くことは人間関係も含めて、それなりの葛藤や、悩みもあったことと思いますが、苦労話は、あまり伺ったことがありませんでした。ただ、同僚や、後輩たちの面倒見の良さには目を見張るものがあり、慕う方も多く、部下には恵まれていたように伺ったことがあります。
「咲き初める むくげ 八重」
歳の離れた従妹であり、細君にも母親同様の接し方をしてくれ、何かと相談相手になってくれました。住まいも車で40分ほどの距離に居られ、折に触れお付き合いさせて頂き、私も薫陶を受ける機会に恵まれたと思っています。晩年には大きな手術も経験され有料老人ホームで過ごされましたが、ホームの皆さんにも大切にされ幸せな日々であったと思っています。