なあむ

やどかり和尚の考えたこと

サンサンラジオ296 林住期

2021年01月10日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
三ちゃんのサンデーサンサンラジオ、第296回。1月10日、日曜日。

人が死ぬのに大晦日も元旦もない、まさしくその通りとなり、3日と4日が葬儀でした。
お寺は365日、24時間営業中で、定休日はありません。
火葬場も2日から営業のようでした。
その間にも、枕経、入棺、出棺と葬儀へのお勤めは続きます。
いつもだと1日に松林寺の新年会、2日に宿用院の新年会があり、泥酔いのスタートになりますが、今年は静かに葬儀で始まりました。

コロナの感染拡大が止まりませんね。
世界中の感染ですから、逃げようがありません。
人類が試されているかのようです。
どれほど高度の技術革新、ネット環境、AIが発達しようとも、それとは全く違う次元で、原始的に人から人、あるいは動物から人へと感染っていきます。
人間はロボットではない、生物なのだと教えているかのようです。
どんどん変異を繰り返していくのがウィルスの正体だと知りました。
ワクチンは本当に効くのでしょうか。
戦争などしている場合じゃありません。武器など使わなくても人は簡単に死んでいきます。
極悲観的なことを言えば、「これが人類絶滅のはじまり」というストーリーも考えられないわけではありません。
以前にも話したことですが、地球にとって人類はがん細胞だという考え方からすれば、ウィルスは地球の免疫作用だということもできるかもしれません。
地球から敵だとみなされているならばそれも仕方ありません。
しかし、人間だって生物として自然から生まれてきたものですから、本来敵ではなかったはずです。
地球上で生き延びる選択肢は二つ。
一つは生活を人間が自然と共に生きていた時代まで戻す。日本でいえば縄文時代でしょうか。
もう一つは、人類の最大限の叡智を結集してまさに持続可能な技術と生き方を創造し、全員がそれに倣うこと。
それ以外ないでしょう。
コロナが、そのラストチャンスのきっかけを与えてくれたのだと受け止めれば、悲観することはないと思います。
このコロナを甘く見ると、世界最大の大統領だって退陣に追いやられるではありませんか。
チャンスとしてしっかり向き合った方がいいと思います。

先週、「下山の道」という生き方について少し語りました。
そこで、「林住期」という言葉が頭に浮かんできました。
五木寛之に『林住期』と『下山の思想』という本がありますがそれを読んだわけではありません。タイトルだけ知っています。
「林住期」とは、インドのバラモン教で説かれる人生の理想的な過ごし方を4つに区分した一つです。
それは「四住期」と呼ばれ、「学生期(がくしょうき)」、「家住期(かじゅうき)」、「林住期(りんじゅうき)」、「遊行期(ゆぎょうき)」の4つです。
「学生期」は青春時代の学びの時期、「家住期」は家庭を持ち妻子を養い社会のしきたりを執り行う壮年の時期、「林住期」は仕事を引退して家を出て森に住み、精神を養う老年期、「遊行期」は全てを捨てて定住せず臨終に向かう時節とされます。
「遊行期」と言っても、古代インドとは違うので、家を持たず物乞いや托鉢で暮らすことはできません。
現代の日本であれば、病院や介護施設、在宅などでお任せしきった日送りということでしょうか。
で、そこまでの間、つまり、仕事の一線から退いて死に向かうまでの一定期間を「林住期」と呼んでもいいでしょう。
その期間をどう過ごすのか。
自分自身の精神的な修行期間ととらえることもできるだろうし、また、自分の経験や知識を若い者に伝える時期ととらえることもできます。
上り坂の成長ではなく、下り坂の成長もあっていいでしょう。
所有しているものも、抱えている責任も、様々な欲も、少しずつ削ぎ落し、心身ともに身軽になって、静けさを友とする生活。
手放すことは解放されることです。自由を手にすることです。
訪ねてくる人があれば、じっくり語り、ゆっくりした時間を過ごす。
林住期には時間の使い方も静かでゆったりしているでしょう。
そんな生活を目指したくありませんか。
学生期、家住期の人々は都会の喧騒の中でもいいと思いますが、林住期は田舎に限ります。
感染も少なく、持続可能な生活が田舎の生活には近いですね。
空き家もいっぱいあります。
何もない田舎で待っています。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。

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