三ちゃんのサンデーサンサンラジオ、第298回。1月24日、日曜日。
金曜日、最上地区の青年僧侶が松林寺を会場に寒行托鉢を修行しました。
今年は欠席が多く、4人だけでした。頭数を揃えるために私も後をついて歩きました。
この時期、最上郡内の寺院を会場に5回修行するのですが、松林寺会場は3年連続となりました。すっかり冬の風物詩となったようで、こうなると止められない感じがします。
事前に案内を回していたので大勢の方が待っていてくれました。小さな子どもたちが合掌してくれると托鉢する者の心も温かくなります。
青年僧のための修行ですが、いただいた浄財は地域の社会福祉のために寄付されます。
朝ドラの千代ではないですが、人は役が欲しいと思っていますね。
主役や脇役でなくとも、たとえ台本に名前もないその他大勢であっても、自分の出番のある役が欲しいと思っています。
その中で、目立たないように目立とうと思ったり、「いいね」と誉めてもらうような役割を演じたいと思うでしょう。
人生も同じですね。
誕生から入学くらいまでは、まさに主役です。
家族全員の注目の的で、一挙手一投足に歓喜します。
子どもを中心に生活が回っていくようなものです。
周囲の呼び名も変わります。
固有名詞ではなく、「お父さん」「お母さん」「おじいちゃん」「おばあちゃん」と代名詞で呼ばれるようになります。
兄弟があれば「お兄ちゃん」「おねえちゃん」と呼ばれます。新しい方へ新しい方へと主役が交代していきます。
学校に入り、仕事をして、結婚して子育てをして、それぞれの場面に役割がありました。
一人で何役もを演じた時もあったでしょう。大変だけど、充実した時代だったと振り返ることができます。
自分の役があることはうれしいことなのです。
それが次第に少なくなっていきます。
出番表に自分の名前が載らなくなるのです。それは寂しいことです。
「充分演じたんだから休めばいい」と言われても、休みばかりではつまりません。
先々週話をした「林住期」は、自発的に全ての配役を降りるということです。
役は社会の中の役割ですから、社会との関わりを捨てて隠遁するということは自ら出番を捨てることです。それには孤独に耐える強い意志が必要です。
問題は、それが自分の意思ではない場合です。
出番が欲しいのに配役がない。みんなの名前が載っている配役表に自分の名前だけがない。
「自分の役がない」と思ってしまうことの寂しさ。それは慣れることかもしれませんが、周囲の気遣いで解消される寂しさかもしれません。
ちょっとした作業を任せるとか、昔の話を飽かずに聞くとか、手の温もりを喜ぶとか、「自分が必要とされている、ここに居てもいいんだ」と思わせることは、周囲ができる疎外感の軽減かと思います。
年齢とともに出番がなくなるのは自然な流れですが、それは社会的な役の話です。人生の役がなくなるわけではありません。
「患者」という役があります。「介護される人」という役があります。だって、そういう役がなければそれに従事する役もなくなるわけですから配役は減ってしまいます。
いやいや、その前に「老人」という役も社会にはなくてはならない配役です。
若い者にとって、「自分もこうなるのか」と考えることによって人生を思う哲学の生きた教材となるのですから。
ある意味、老人は「老人」という役の主役でもあります。
お釈迦様は、「涅槃図」の中の主役です。大勢が見守る中に横たわっています。死を見つめています。
お釈迦様ばかりではありません。死を看取られる人は全てが主役です。みんなが見守る中心に人はいます。誕生と同じです。
葬儀の主役は喪主でも祭司者でもありません。間違いなく死者です。
それができにくい現況は真に痛恨の極みです。主役としてみんなで見送りたいと思います。
社会の役と人生の役を混同してしまうと、自分は要らない人間だと勘違いしてしまうかもしれません。
人は誕生したときから臨終の際まで、人生の主役なのです。主人公なのです。
千代だって、端役というドラマの主役を演じているではないですか。
今週はここまで。また来週お立ち寄りください。
金曜日、最上地区の青年僧侶が松林寺を会場に寒行托鉢を修行しました。
今年は欠席が多く、4人だけでした。頭数を揃えるために私も後をついて歩きました。
この時期、最上郡内の寺院を会場に5回修行するのですが、松林寺会場は3年連続となりました。すっかり冬の風物詩となったようで、こうなると止められない感じがします。
事前に案内を回していたので大勢の方が待っていてくれました。小さな子どもたちが合掌してくれると托鉢する者の心も温かくなります。
青年僧のための修行ですが、いただいた浄財は地域の社会福祉のために寄付されます。
朝ドラの千代ではないですが、人は役が欲しいと思っていますね。
主役や脇役でなくとも、たとえ台本に名前もないその他大勢であっても、自分の出番のある役が欲しいと思っています。
その中で、目立たないように目立とうと思ったり、「いいね」と誉めてもらうような役割を演じたいと思うでしょう。
人生も同じですね。
誕生から入学くらいまでは、まさに主役です。
家族全員の注目の的で、一挙手一投足に歓喜します。
子どもを中心に生活が回っていくようなものです。
周囲の呼び名も変わります。
固有名詞ではなく、「お父さん」「お母さん」「おじいちゃん」「おばあちゃん」と代名詞で呼ばれるようになります。
兄弟があれば「お兄ちゃん」「おねえちゃん」と呼ばれます。新しい方へ新しい方へと主役が交代していきます。
学校に入り、仕事をして、結婚して子育てをして、それぞれの場面に役割がありました。
一人で何役もを演じた時もあったでしょう。大変だけど、充実した時代だったと振り返ることができます。
自分の役があることはうれしいことなのです。
それが次第に少なくなっていきます。
出番表に自分の名前が載らなくなるのです。それは寂しいことです。
「充分演じたんだから休めばいい」と言われても、休みばかりではつまりません。
先々週話をした「林住期」は、自発的に全ての配役を降りるということです。
役は社会の中の役割ですから、社会との関わりを捨てて隠遁するということは自ら出番を捨てることです。それには孤独に耐える強い意志が必要です。
問題は、それが自分の意思ではない場合です。
出番が欲しいのに配役がない。みんなの名前が載っている配役表に自分の名前だけがない。
「自分の役がない」と思ってしまうことの寂しさ。それは慣れることかもしれませんが、周囲の気遣いで解消される寂しさかもしれません。
ちょっとした作業を任せるとか、昔の話を飽かずに聞くとか、手の温もりを喜ぶとか、「自分が必要とされている、ここに居てもいいんだ」と思わせることは、周囲ができる疎外感の軽減かと思います。
年齢とともに出番がなくなるのは自然な流れですが、それは社会的な役の話です。人生の役がなくなるわけではありません。
「患者」という役があります。「介護される人」という役があります。だって、そういう役がなければそれに従事する役もなくなるわけですから配役は減ってしまいます。
いやいや、その前に「老人」という役も社会にはなくてはならない配役です。
若い者にとって、「自分もこうなるのか」と考えることによって人生を思う哲学の生きた教材となるのですから。
ある意味、老人は「老人」という役の主役でもあります。
お釈迦様は、「涅槃図」の中の主役です。大勢が見守る中に横たわっています。死を見つめています。
お釈迦様ばかりではありません。死を看取られる人は全てが主役です。みんなが見守る中心に人はいます。誕生と同じです。
葬儀の主役は喪主でも祭司者でもありません。間違いなく死者です。
それができにくい現況は真に痛恨の極みです。主役としてみんなで見送りたいと思います。
社会の役と人生の役を混同してしまうと、自分は要らない人間だと勘違いしてしまうかもしれません。
人は誕生したときから臨終の際まで、人生の主役なのです。主人公なのです。
千代だって、端役というドラマの主役を演じているではないですか。
今週はここまで。また来週お立ち寄りください。