なあむ

やどかり和尚の考えたこと

義道 その3

2021年01月27日 05時00分00秒 | 義道
中学校時代

あまりいい思い出のない小学生時代より、中学生の頃は割と楽しかった印象がある。先生にもよるのかもしれない。2年生の時に担任だった高橋先生は好きな先生だった。美術が専攻で、絵の授業で先生からよくほめてもらった。野球部の顧問の本間先生も好きだった。
文化祭の実行委員になったのだろう。そのための準備会議に参加して先輩たちの大人びた発言にワクワクした記憶があるから1年生の時だったかもしれない。看板やポスター書き、その準備に熱中して学校で朝までやっていた記憶がある。初めての徹夜だった。その頃の中学校ではそんなことができたのだと思う。
部活は野球部だった。というより選択の余地がなかった。野球以外は陸上部とバスケット部だけだった。休み時間はもっぱらサッカーで遊んでいた。
少しずつ自我に目覚め、恋をしたりして、大人っぽくなることに胸を膨らませていた喜びが記憶にある。恥ずかしい数々の思い出は思い出さないことにして、いい時代だったことにしておこう。

ただ、高校受験の頃は父親との確執がひどくなって勉強にも集中できなくなっていた。
昭和47年(1972)、庫裡改築の落慶式に合わせて首座法戦式を行うという。和尚の段階を踏むには必ず通らなければならない関門の儀式だ。しかし、それがなぜ中学3年のこの時期なのか。しかも、高校受験の実力テストの直前だった。
首座を務めるには覚えなければならない言葉がたくさんあるのだが、受験生であることを理由にカンニング状態で済ませることにしていた。頭を剃るのも必須の形だとは知っていた。しかしそれも受験生にかこつけて伸ばしたままでやろうとしていた。親ももう何も言えない状態だった。
当日の朝、側にいて指導とお世話をしてくれる役の和尚さんからいきなり「剃るぞ」と洗面所に連れて行かれた。もう抵抗は叶わないと諦めた。お陰で形だけはそれらしい式を済ませることができた。

卒業後の進路が話題にのぼるようになって、それぞれが家業や家庭の事情、自分の希望などで進路を選択していた。農業、工業、商業、普通科高校、専門学校、職業訓練校、就職組もいた。将来の仕事を選択するのと同じ意味だった。そんなとき、同級生が「義道、お前はいいな、決まってるから」と言った。その言葉にどれほど宿命的な恨みを感じたかしれない。「それもこれも、全て父親のせいだ」と思った。
みんな自分で自分の将来を考え選択、決断しているのに、なぜ自分だけ決められているのか。いや、正確に言えば決まっていたわけではない、決まっていると思い込まされてしまっていただけだ。しかし、そのことが自分を苦しめていた。しかも、父親の仕事を見ているとどうも人が死んでからの仕事のようだ。人の不幸の時だけ必要とされる仕事などやりたいはずがない。ただ、もし自分が和尚になってこの寺を継がなければ、母親はどうなるのだろう。父親が元気なうちはいいが、病気になったり死んだりしたら、母親はこの寺に居ることができなくなるのではないか。それはかわいそうではないか、というぐらいの考えはあった。
いずれにせよ、大学には行きたいので高校は地元の進学校を目指してはいた。しかし、実力テストの成績は芳しくなく、実際の受験後の自己採点では不合格の予想の方が勝っていた。なので、合否の連絡が来る家には居たくなく、学校そばの友だちの家でうなだれていた。このまま山に行って死んでしまおうかとも考えていた。するとそこに担任の草壁先生が入って来て、いきなり握手を求められ「おめでとう!」と言う。思わずその場に泣き崩れてしまった。「家に電話したけどまだ帰って来ないというのできっとここだろうと思って来てみた」と言うのだ。先生も心配だったのに違いない。

卒業文集にこんな詩を寄せている。
 少年は裏口から旅に出る
 住み慣れた家を捨てて 母も恋人も忘れ
 誰もいない寝静まった 
 アスファルトの道路の オレンジ色の外燈の下を
 少年は肩を抱いて 走り抜けた
 ズックの足音だけが ビルの谷間に響き
 少年はリュックを背負って旅に出た
 さあ山へ、さあ海へ、草原へ、湖へ
 そして、老木になり、砂になり、草になり、清水になり
 その時、少年は
 憎しみとうらぎりにやつれた人間どもを見つけるに違いない
 心の目を失った少年は 裏口から旅に出る
よっぽど、家を出たかったに違いない。

中学最後の国語の授業の時、先生が「今日は最後なので、何でもいいから作文を書いて下さい」と言って原稿用紙を渡した。もう内申書に響くわけではないので何を書いてもよかった。その頃が父親との関係が一番煮詰まっていたのだと思う。原稿用紙に殴り書きで「もう、自分が死ぬか父親が死ぬかどっちかだ」と書いて提出した。その夜国語の先生から電話があった。作文を読んで心配してくれたのだと思う。父親が階段の下から二階に向かって「死ねるものなら死んでみろ!」と怒鳴ってきた。死んでみろと言われても死ぬ度胸もなく、関係が最悪のまま高校へと通っていった。