なあむ

やどかり和尚の考えたこと

義道 その2

2021年01月20日 05時00分00秒 | 義道
小学校時代

松林寺の周囲は古い農村地区で、住民の9割以上が農家である。その中にあってお寺という家族はそれだけで特殊な存在であり、また母親が保母(あえて当時の呼び方を使わせてもらう)として家の外に職を持っているという点でも特殊であった。
何よりも着ているものが違っていた。農家の婦人にはそれなりに決まった姿形というものがあった。それが仲間としての制服みたいに。その中でスカートなどを穿いて出勤する母の姿は目立ったに違いない。
仲間かそうでないかで内と外を分ける世間である。面と向かっては言わないまでも、お寺の家族は一歩離れたところから眺められていた「外の存在」であったと思う。子どもたちが私を見る目もその環境の中にあった。
私の小学校の入学式の写真を見ると、ほとんどが黒い学生服を着ている男子の中にセーターなんぞを着ている。どこかの「坊ちゃん」のように浮いた存在だったろうと思う。「生意気」に見えたかもしれないし「弱虫」に見えたかもしれない。
実際に体は弱かった。青白い虚弱体質だった。低学年の頃はしょっちゅう病気をしていたし入院したりして学校を休むことも珍しくなかった。
その頃を思い出して母親は「自分が悪いんだ」とずっと後まで語っていた。おっぱいを飲んでいたころ、姑との関係が良くなくてストレスを抱えていたらしい。よく泣いて夜泣きもひどかった。心なしか痩せていっているように見えるようになって、病院に連れて行って診てもらうと、医者から「母乳が出ていないんじゃないか」と言われてショックを受けた。その帰りに薬局に寄って、瓶入りのヨーグルトを泣きながら与えると二つをペロリと食べた。「母乳が出ていないことに気づかない母親であることが情けない」と自分を責め、涙ながらに後悔の念を漏らしたことが何度かあった。大学生になってからも、「お前の背が小さいのはそのせいだ」とこぼしていたが、それは違うだろう。
それが徐々に健康体になっていたのは小学高学年になった頃からだと思う。その当時の遊びと言えば、学年が近い子どもたちが集まっての外遊びだ。寺の境内は子どもの基地のような集合場所だった。色んな年代の男子も女子もここに集まってはそれぞれの遊びに興じていた。缶ケリ、釘ウチ、メンコ、ビー玉、ソフトボール、女の子はゴムトビや石ケリなどをしていた。杉玉や紙玉の竹鉄砲、ブーメランや弓矢なども作って遊んでいた。
小学入学したかその前か、大きな男子が放った弓矢が私の額に当たったことがあった。弓は杉の枝で作り、矢は茅の先に傘の骨を短く切って刺したものだった。額に突き刺さるほどではなかったが、そのかけらが残り病院で抜いてもらったことがあった。考えてみれば命がけで遊んでいたような時代だ。
そして夏は川、冬は山でスキーが定番だった。夏休みはもちろん毎日川に行ってヤスで雑魚獲りをした。4年生の夏休み明けだったと思うが、教室で「くろんぼ大会(当時の言い方)」というのがあった。男子も女子も上半身の背中をさらして誰が一番日に焼けたかを競うという野蛮な夏休みの報告会である。その時に栄えある1位になったのが私だった。その後は病気で学校を休むということはなくなったように思う。

 松林寺ではその頃書道と算盤の塾をやっていた。毎週日曜日、父と学校の先生3人が書道と算盤に分かれて子どもたちに教えていた。午前と午後の部があって、本堂と、境内に隣接して建っていた公民館を利用して大勢の子どもたちが習いにやって来ていた。私も嫌々ながら書道を習わされていた。子供にとっては終わってからの遊びが楽しみなこともあった。
 5年生のある日曜日、塾が終わってから数人の仲間と山に栗を採りに行った。木の下で拾うばかりでなく木に登って枝を揺らして振り落としたりもした。その時、私より上に登っていた男子が振り落とした栗のイガが私の顔に当たった。それが運悪く目に刺さってしまった。目玉そのものに痛みはないがごみが入ったようにゴロゴロしていた。家に帰ってその話をすると、塾が終わって呑んでいた先生たちが心配して、「病院で診てもらった方がいい」と言ってくれた。たまたまその頃母親がむち打ち症の治療で仙台の東北大学病院に通っていて、次の日の月曜日に通院する予定になっていた。「それなら一緒に連れて行って大きなところで診てもらった方がいい」と進言してくれた。
 大学病院の眼科で診察したところ、「トゲが4本目玉に刺さっていて奥に進行している、すぐに手術をしなければ抜けなくなって失明してしまう」という話だった。緊急手術を行い何とか事なきを得た。
病院の先生からも周囲の大人たちからも「ぼんやり上を向いて落ちてくるのを見てたのか」とバカにされたが、そんなはずがない。名誉のために弁解しておくと、ボタボタ上から落ちてくるので「もうやめろよ」と上に声をかけた瞬間に顔に当たったのだった。それにしてもドンクサかったのは事実だ。
 6年生の時だと思うが、同級生の男子と教室で言い合いから取っ組み合いになったことがあった。ケンカをするような質ではなかったが、何故かそんな気分になったのかもしれない。その時に、周りで見ていた男子たちが「ヤレ!ヤレ!」と加勢をしている声が聞こえた。それが私ではなく相手の男子への応援だった。やられるべき存在だったのかもしれない。自分の味方がいないのだと知ったことがショックだった。