ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

清洲会議と松姫

2014-12-07 15:27:43 | 歴史

清洲会議と松姫

「あんれ・・まあ!!」 ・・・

12/6夜、TVで、三谷幸喜の”清洲会議"を見た。
内容は、面白いことは面白いのだが ??

TV 清洲会議

清洲会議
 ・・・ 戦国時代、信長が明智光秀の謀反に合い、本能寺で”横死”した後、西国出征の秀吉が、信長の武将の誰よりも早く取って返し、光秀を征伐した。これよりの課題は、織田家の跡目をどうするか、信長の領分をどう配分するか、・・・今後の権力構造を決定付ける重要な会議・・清洲会議であった。会議の参加資格者は、柴田勝家、丹羽長秀、秀吉、滝川一益 ・・滝川は、東国で後北条との戦いで苦戦し参加が遅れる。滝川の代わりに、‎池田恒興が選ばれた。 ・・・ 織田家の跡目に、勝家は織田信孝(3男)を推し、秀吉は戦死した信長の嫡子・信忠の子・三法師を推す。この時の、裏の駆け引きも面白いが、正統性の強い三法師に決まると、秀吉は三法師を膝に載せ、織田家臣団に挨拶をさせる。本来は、幼い跡目の三法師への挨拶だが、あたかも新主人の秀吉への臣従の挨拶のようであった。・・・
 ---以上が史実であるようだが、ドラマには「所々史実とは異なる作り話」を入れてある。TVを見ての感想と評価を読んでみると「作り話」までが、史実であるかのように受け取られている。

清洲城

柴田権六が、あそこまで”あほであった”かどうかの誇張や、お市の方が、あそこまで秀吉を嫌っていたかの誇張は、とりあえず許される範囲と言うことにする。

小説・清洲城

しかし、三法師の母、信長の嫡男・信忠の正妻を、信玄の娘・松姫にしたのは史実に反する。 ・・・恐らく三谷幸喜は、分かっていて、あえて松姫にしたのだろうと思うが ・・・これを史実と信じる評価をあまりに多く見ると、なにか危うく感じてしまう。・・・これは違うのだ!


松姫のこと ・・・

松姫を演じた 剛力彩芽

おいたち
松姫は、永禄4年(1561)に古府中(甲府市)のつつじが崎の屋敷で生まれました。父親は戦国時代の武将の一人で甲斐の国(山梨県)を中心に活躍した武田信玄、母親は油川信友の 娘です。永禄10年(1567)11月、松姫が7歳の時に織田信長の11歳の長男信忠(幼 名:奇妙丸)と婚約しました。結婚のお祝いわいの品は、帯や布地、織物、金・銀の細工物、虎やヒョウの毛皮など豪華な品々がやりとりされました。この時代の身分の高い人たちの結婚は、「政略結婚」といって、家同士どうしの結むすびつきを強めるために、本人の意思と関係なく親が決めていました。結婚式まで相手の顔を見ないこともありました。


かなしみ、そして旅立ち
元亀2年(1571)、松姫が11歳の時に母が亡なくなり、翌年には武田家と織田家が敵・味方に分かれてしまったため、信忠との婚約が解消されてしまいました。原因は、三方が原の合戦の時、織田の軍勢が武田と敵対していた徳川の軍勢に加勢したためでした。
さらに、天正元年(1573)4月には父・信玄が亡くなり、織田家は武田家を滅ぼそうと攻せめるようになりました。武田家が滅亡する天正10年(1582)1月下旬、松姫は、留まっていた兄・仁科盛信の高遠城に織田軍が攻めてくるとの知らせに、兄・盛信の3歳になる姫を連れて高遠城を逃れました。その後、、新府城に行って兄・勝頼の4歳になる姫、人質として預かっていた小山田信茂の4歳になる姫も加わえ、少ない供を連れて逃げ延びていきました。高遠城(伊那市高遠)から始じまり、新府城(韮崎)→入明寺(甲府市)→開桃寺(今の海島寺・塩山市)→向獄寺(塩山市)→ 金照庵という古寺(八王子市上恩方)まで、 幼い姫たちを連れ、そしていつ敵に見つかるかもしれない旅は、精神的にも肉体的にも大変なものでした。
6月2日、本能寺の変が起こり、武田家を滅ぼした織田信長、信忠が亡くなってしまいました。その年の秋、金照庵から心源院(八王子市下恩方)に移り、髪を切って尼になり、信忠をはじめ、武田家一族の人たちの冥福を祈りました。


▲鶴巻橋の松姫像尼になって名前が「松姫」から「信松尼」に変わりました。松姫、22歳のことです。松尼の「信」は、信忠の妻であるという意味が込められていると伝えられています。


信松尼と信松院
心源院で8年間の 修行をつみ、天正18年(1590)の秋、御所水の里(今の台町)に移り住みました。尼としての生活を送りながら、11、12歳になった3人の姫たちを育て生活するため、朝から晩まで 働きました。収入は、寺子屋で近所の子どもたちに読み書きを教えたり、織物を作ることから得ました。もちろん、織物はカイコを育て、糸をつむぐことから始まります。これらの松姫の織り方が、八王子の織物の発展につながったと言われています。
また、かつて武田信玄につかえていた大久保長安は、松姫が八王子にいることを知り、彼女のためにりっぱな草庵(今の信松院がある場所)を贈りました。元和2年(1616)、松姫は56歳で亡くなりましたが、生前の願いがかない、この草庵はお寺にされ、「信松院」と名付なづけられました。このお寺には、松姫のお墓、江戸時代のなかごろに作られた木造の松姫坐像、日本最古の木造の軍船模型があります。この軍船模型は東京都の指定文化財になっています。境内には布袋尊がまつってあり、毎年1月の1日から15日まで八王子七福神巡りの一つとしてにぎわいます。また、毎年7月には「ほおずき市」がおこなわれ、夏の風物詩になっています。・・・八王子図書館


 
松姫は、大変美しい方だったという伝承が残っています。それと、織田の高遠城攻めの後、八王子へ逃れていた松姫のもとへ、織田信忠から、改めて正妻に迎えたい、という書状が届き、松姫は心待ちにしていたと伝えられています。その直ぐ後に、本能寺の変が起こり、信長と信忠は"横死”しました。”本能寺の変”を聞いた松姫は、一生独身を決意し、尼僧になったと伝えられています。何故か、この逸話からか、女性に圧倒的に人気が高いそうです。こうゆうのを、"純愛”というのかもしれませんが、所謂”歴女”という人達からかなり評価の高い歴史上の女性のようです。


 

松姫・side-story


見性院に預けられた幸松(コウマツ)を、嫉妬深い二代将軍の御台・お江の方が追跡を始めると、幸松の身を案じた見性院は、妹の松姫(=信松尼)に相談します。松姫は、姉の願いを聞き入れて、幸松を八王子の自分ところへ隠すことにします。

この時見性院と松姫(信松院)は、幸松の”身の安寧”を願い、祈願文を大宮・氷川神社に納めた、といわれています。
この祈願文が本当にあるのかどうか、氷川神社の若い神官に尋ねたことがあります。 ・・・氷川神社には、そのような祈願文の管理はしてないそうです。若い神官が言うには、もしあるとすれば、”歴史的古文書は、宮司の西角井家の方で管理保護している”にではないか、とのことです。
幸松は、後の”保科正之”の幼名。三代将軍家光の弟で、成人してから、親藩筆頭の会津松平家の始祖になった人。幼年の幸松を庇護した見性院は、家康から浦和の大牧に知行をいただき、大牧に墓があります。その知行地は、伊奈忠治の管理下で、忠治が見守ったと言われています。


 ・・・経緯から、公にはなりにくい内容ですが、松姫は、幸松も庇護したのではないかと言われています。


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2 コメント

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RE:松姫峠 (比企の) (庄次郎)
2014-12-13 14:26:52
たぶん、松姫の逃避ルートは、反対側の山側のようなような気なします。確かではありません。
そういえば、中村彰彦の小説が、菅原文太が亡くなったときの、奥さんのコメント・・「落花は枝に還らずとも」というのがありました。続く言葉を勘案すると やはり種を残す が相応しいのでしょうか。秋月某のことは、この本で知りました。
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松姫峠 (比企の)
2014-12-12 21:13:20
奥多摩湖から甲州小菅村、峠を越えて大月市猿橋へ。この道を通ったことがあります。
峠の名前は松姫峠、いつの時代に名づけられたのでしょう。
松姫が恩方に向った道は特定できないそうですから、松姫がこの峠を越えたかは定かでないようです。
中村彰彦の小説では幸松の庇護者になってた?…むかし読んだので確かではありません。
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