円空の木仏 ・・漂泊の木彫りの仏師
十二神立像・円空・正法院・県立博物館寄託蔵
円空の生きた時代は、江戸時代初期と言われる。
・・「円空は、江戸時代前期の行脚僧であり、全国に「円空仏」と呼ばれる独特の作風を持った木彫りの仏像を残したことで知られる。 円空は生涯に約十二万体の仏像を彫ったと推定され、現在までに約5350体発見されている。円空仏は全国に所在し、北は北海道・青森、南は三重県、奈良県までおよぶ。」・・Wikipedia
円空仏像・一本彫り・市立博物館
今でこそ、円空の木彫り仏像は有名で人気が高いが、実は昭和30年頃まで、ほとんど無名に近かった。円空人気の火付け役は劇作家飯沢匡で、昭和30年代に飯沢匡氏が円空をモデルとしたドラマを作成し、それがヒットした時らしい。 それまでは知る人ぞ知るというマイナー仏師であった円空がこの全国放送にのったドラマにより日本中に有名となり、それ以後円空は仏像に興味持つ人を魅了する存在の座を保っているという。
さらに輪をかけたのが「歓喜する円空」の写真付き著作を出版した梅原猛であった。
この二人は円空の人物像に隔たりがあり論争しているが、そこには立ち入らない。
円空は、仏像を彫るとき”一本彫り”という技法を使う。この技法は、それまでの木製仏像制作の方法と顕かに違う。京都・奈良の寺院にある仏像は、寄せ木造りで、大勢の職人が手分けして部分パーツを作り、合体させて磨き上げ、漆を塗って装飾して完成させる。形状は、銅などで作った伝来の仏像とほぼ同じだ。これには教科書があったようだ。
円空の仏像は、一本の丸木を縦に割り、鑿を使って彫り上げる。それは、見た目の通り、荒削りな仏像だが、表情が優しい。
茨城県笠間市にある月崇寺の観音菩薩像の銘には、「御木地土作・大明神」という円空の自署がある。木地土は木地師であり、大明神は木地師の守護神である雄鶴大明神をさしているようだ。どうも、伝来の仏像制作の”仏師”から技法を学んだわけでもなさそうだ。
そうだとすると、木を扱う技術の習得が気に掛かる。
出自を調べると、・・・円空は1632年美濃国(岐阜羽島)で生まれています。母は郡上美並の木地師の娘、とあります。父は、郡上星宮神社の宮司西神頭安永と思われます。何か問題があったのか、父親の神社の宮司は、母子を羽島に遠ざけて面倒を見たようです。ところが円空七歳の時に長良川の洪水で母と死別してしまいます。そこで、円空は西神頭家の庇護を受けに郡上に引き取られます。・・・
郡上市美並の伝承 ・・・円空は寛永九年(1632)美濃国郡上郡の南部、瓢ヶ岳山麓(美並村)で木地師の子として生まれたと推定されています。・・少年時代から山野を歩きまわると共に星宮神社の別当寺である粥川寺に出入りし、雑役のかたわら経文や手習いを教えられ、その間に周辺の山々や伊吹山・白山などに登り、山伏修験との交流があったと考えられています ・・・どうも幼少の時、周りは木地師で、木地師は浮遊の民であり、そのような環境であることが見て取れます。後の放浪の仏師・円空の素地はここにあります。
円空の彫刻の技法、山伏の修験、仏法知識は、七歳から三十四歳まで過ごした瓢が岳山麓や伊吹山山中で醸成されたと見るのが合理的です。
それから、二十五年間、たまに戻りますが、北海道から東北・関東・飛騨などへ仏像を作りながらの旅が延々と続くわけです。
円空の仏像は、かなり広範囲に発見されていますが、やはり生まれ故郷の岐阜県が一番多く、続いて愛知県、三番目になんと埼玉県がランクしています。円空は、生涯で十二万体の仏像を彫り、そのうち四千五百体が確認されています。埼玉県内の円空仏は151体。これらの多くは大宮、岩槻、蓮田など、日光御成街道沿 いの地域に集中しており、文献には埼玉で仏像を彫った事歴は見つけられないが、北海道・東北や日光や富岡へ行く道すがら、日光街道沿いで仏像を彫ったようです。特に日光へ行ったときは、四年間関東に滞在したらしく、このときの仏像が、大宮、蓮田、岩槻に存在するようです。
十二神将像、薬師如来像、 正法院 見沼区南中野
阿弥陀像・、・・・・・、 満蔵寺 見沼区膝子
十二神将立像、・・・・・、 薬王寺 見沼区島町
龍頭観音像、他三体・・、 観音堂 見沼区宮ケ塔
など
数日前、正法院、満蔵寺、薬王寺を訪ねてみました。観音堂は場所不明で届かず。しかし、案内板はあるものの、写真のみ ・・円空の仏像は、県立博物館へ寄託とのことです。
*寄託 ・・所有権は移動せず、火事・盗難から守るため、さらに公開するために、管理を県立博物館に任せたようです。
*上記の理由で、県立博物館は、蓮田の矢島家の”円空仏群”を始めとする、市内近郊の円空仏が保管展示されています。
*仏像の写真は、Gケース(ガラス)越しになり、見にくい光の影が出てしまったものもあります。
棟方志功の話
見沼区南中野の正法院へ行った時、住職は留守で、奥様とお話しする機会を得ました。
・・「埼玉で、”円空仏”が発見されたのは正法院が最初だそうです。・・発見から暫くして、棟方志功が正法院を訪ねてきたそうです。・・棟方志功は、”円空仏”を見つけると、両手に抱きかかえ、”円空さんだ・・円空さんだ・・”と円空の名前を呼び続け、感激で泣き始めたと言うことです。・・棟方志功は、円空が好きだったんですね-」
・・正法院の奥さんの話はこれだけでしたが、僕には「棟方志功と円空」という命題が、どうも出来たようです。そいうえば、棟方志功の版画絵と円空の木彫り仏の力強さは共通しているように思えます。美術の専門家ではないのでうまく言えないが、内面には共通項があり、表現の媒体(版画と仏像)が違うだけではないか、なんて、二人の作ったものを見比べると、そう思えてなりません。
○ 円空の 怒髪 天を衝き 雁が飛ぶ
参考:梅原猛(哲学者)『歓喜する円空』
参考:棟方志功『板極道』、『板散華』。棟方は版画と言わず板画という。