ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

岩槻は、「太田道灌」のつくった街? ・4 平林寺付近・

2018-04-15 22:13:08 | 神社・仏閣

岩槻は、「太田道灌」のつくった街? ・4 平林寺付近・


平林寺付近・

古い街には寺が多い・・
武蔵野(埼玉)・でいえば、古い街は川越や岩槻を指すのだろう。現代にいたって、町の規模は、大宮や浦和や川口や所沢や越谷などが人口増を繰り返しているが、ここいらのところは規模の小さい宿場町や農村風景だったところがほとんどであった。
寺を作るのを開基というのだそうだが、一般の住宅と違ってそこそこの金がかかるのは想像するに容易である。とすれば、寺を建立するに足る資産家の存在が前提とされるわけで、中世から以前とすれば豪族が考えられる。武力と資力を蓄えた権力者は、領主様であるわけで、この権力者が歴代存在した場所に「寺」が多いという構造になり、それが川越(河越)であったり岩槻であったりしたわけである。
寺というものの風景を覗くと、一部の古刹と呼ばれる寺は、寺の敷地内に卵型の墓は有するが墓地がない・・いわゆる祈願寺。その他の寺は広大な墓地を有する「菩提寺」に分かれる。
岩槻には、道灌の血流の太田家の菩提寺の寺の他、江戸幕府時代の若手有能幕僚の知行地としての岩槻藩が度々赴任地として繰り返されたため、その大名たちの菩提寺も多い。いわゆる歴史の長い城下町の特色である。さらに、岩槻市外に及ぶと、岩槻大田氏の有力家臣団(家老など)の在地に有力家臣団が菩提寺を建立しており、併せて、寺院の数が多い・・・


平林寺付近・

岩槻:平林寺付近・地図


国道122号線は、3桁国道にもかかわらず車の通行量の多い国道として知られる。別名を”岩槻街道”と呼ばれる。この岩槻街道は、岩槻市街地に入るやいなや幹線R16号と交差する加倉辺りで大渋滞を引き起こす。渋滞解消のため、東北自動車道ルートに併設してバイパスを作ったが”岩槻インター”があったため変則になり、スムーズな交通量の流れになっていない失敗作パイパスとなった。この122号が、新道・バイパスと旧道に戻る地点が平林寺付近である。従って平林寺の地名はドライバーにとっては馴染み深い・。その平林寺だが、地名だけを残して岩槻には”平林寺”は既に存在しないのである。

岩槻:平林寺跡  

  

江戸時代初期に、松平信綱が忍藩主になった。この秀才といわれる”知恵伊豆”の異名を持つ信綱の、松平家の菩提寺が平林寺なのである。岩槻の平林寺地籍が、その昔に忍藩の領域だったかどうかは不明である。
ではなぜに信綱が平林寺を菩提寺にしたか、であるが・・ここにはこんな事情が隠されている。松平信綱は、もともとは大河内久綱の長男・三十郎(幼名)と呼ばれた。幼いときからかなりの秀才で、幕閣に連なる出世には、格式の家に養子になるべきと長沢松平の養子になり、三代・家光の小姓になることから始まった。
ちなみに、大河内久綱は「伊奈忠次関東代官頭」の部下で、幕府直轄・寄居の代官でもある。当然、伊奈忠次の小室城の管理下・蓮田にも屋敷を構えていたらしく、幼少を蓮田で過ごした記録が残る。確とした記録は残っていないが、恐らく平林寺と大河内家は、その頃の繋がりだろう。
しかして松平信綱が、川越藩に入封されると、松平家の菩提寺として、新座・野火止に平林寺を移した。
現在に至って、平林寺の秋の紅葉は、京の寺に比しても劣らない、美しき庭園をつくっている。


平林寺の紅葉・

                

 

一説に

 ・・ 岩槻平林寺 ・・・ 永和元年、太田道灌の祖先である太田備州守は鎌倉円覚寺の住職を務めた石室善玖を招き渋江郷金重村(岩槻区平林寺)の地に金鳳山平林寺を建立・・・平林寺住職を勤めた泰翁宗安は足立郡原宿(上尾)、野本鎌倉方(東松山)、加倉(岩槻)の一部の代官職も勤め僧侶の立場で兵を ...とあるが、太田備州守は、苗字こそ太田であるが、時代検証の結果と大田家(道灌系統)から関係性を記録するものも出ないことから、無関係と思われる。