わたしが20代のころ、サルトル哲学に惹かれたのは、その【責任】を強調する思想にありました。
有名な「実存は本質に先立つ」という命題が、どのような決定論も存在しないことの明晰な自覚をもたらす思想であることを知り、人間はいかなる支えもなく、たえず己を人間としてつくり出すべく宿命づけられていることを了解したとき、わたしは、【人間になった】と感じ、深いよろこびを得ました。
人間は、存在論的には自由であるほかないという自覚と、
現実次元における【自由】の行使が【責任】を生み、その責任を「私」が引き受けるということ。
それこそが主体者としての人間の人生です。
神だの運命だの遺伝だの・・・という遁辞は一切許されない。どこまでも「私」は、己の存在を引き受けて生きる以外にはないことの【覚悟】を与えてくれたのがサルトル哲学でした。
わたしは、私の人生を日々創造しながら生きる。抽象的に人が生きるのではなく、私が生きるのです。己の存在は己が引き受けるより他にありません。この【根源的な責任】の思想ほど人間を自由にするものはないのです。表層的な自由ではなく、精神の奥深くの自由です。勝手気まま、その場その時の都合で揺れ動くというのではなく、「私」が己の存在を引き受けて行為するという自由は、強い責任意識を生み、人間を真に倫理的な存在とします。それが深い人間的魅力をつくるのではないか、わたしは、ずっとそう思って生きてきました。
武田康弘