思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

事実学は事実人しかつくらないー?

2007-11-20 | 恋知(哲学)

興味・関心から切り離された点数のための勉強を毎日こなす人生を歩まされる子供、幼い頃から面白みのない紋切り型の勉強をするように躾けられる子供、それでは、人間は人間にはなれません。意味と価値のない世界を生きるのは、人間としては生きないことだからです。自分からはじまる「好き」の世界が中心・土台になければ、人間は人間にはなれず、自動人形に陥ってしまいます。

人間の知性―「知る」とは、心身全体による会得のことであり、感情世界にまで届く悦びや面白みのことです。丸暗記や冷たい理性ではないのです。知ることが生の充実に結びつかないならば、その知は、「悪しき知」でしかありません。人間のよい=よいのイデア{生き生きとしていること、輝いていること、しなやかなこと、溌剌(はつらつ)としていること、瑞々(みずみず)しいこと、高揚感のあること、愉快なこと=自由と愉悦の心}を広げ深めることに寄与しない「知」には存在理由がないのです。ただ他者に優越するための知であれば、それは自我主義をしか招来せず、自他の幸福を元から奪う「悪しき知」としか言えないからです。

【意味論としての知】ではなく、【事実学としての知】を累積することを続ければ、内側から湧き上がる世界のない人間=自動人形に陥るしかありません。内面世界の豊饒化とは無縁の技術主義に落ちていくわけです。スタティクな形式主義、四角四面の灰色空間、悦びを消去する厳禁の精神、外的価値しか分からない不毛な生、に沈んでしまいます。
(つづく)




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