思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

「哲学館」と井上円了ー文部省の弾圧に屈せず、初心を貫いた先達

2005-09-24 | 恋知(哲学)

「哲学館」(後に東洋大学)の創設者、井上円了(えんりょう)は、哲学は「思想練磨の術として必要なる学問」で、人は肉体を練磨するために運動や体操をするように、精神を練磨するために哲学を学ぶ必要があると考えていました。

 つまり「哲学館」では哲学を教授するとはいっても、「哲学学者」を養成しようしたのではなく、一般の人々が哲学を学ぶことによって、「ものの見方や考え方の基礎」を身につけることを教育目的としたのです。

 浄土真宗・東本願時派(大谷派)の出である井上円了は、1881年(明治14年)東京大学の文学部哲学科に入学しましたが、その年の哲学科入学者は、彼ひとり。「哲学」という訳語自体、その7年前に西周(にしあまね)によってつくり出されたばかりでした。

 在学中の井上円了は、哲学研究会をつくり、カント、ヘーゲル、コントの研究討議を行い、友人の三宅雄二郎、棚橋一郎と共に哲学の「学会」を創る構想を練りました。1884年(明治17年)に、井上哲次郎、有賀長雄を加え、神田錦町の学習院内に本部を置き、第一回会合をもちましたが、この会には、日本に哲学を導入した中心人物たち・加藤弘之、中村正直、西村茂樹、外山正一らも参加しました。
 
卒業後の彼は、森有礼文部大臣からの文部省への就職を断り、また、東本願寺からの教師教校への教授就任要請も断りました。俗人となって民間人として哲学教育を行う強い意志を固めていたからです。

彼は、29才のとき、1887年(明治20年)に「私塾の精神」に基づく『哲学館』を創設しましたが、その目的は人間の精神活動を活性化するところにありました。
「帝国大学(東大)においてすらも教師はただ生徒の頭脳になるべく多くの知識を注ぎ込まんとし、生徒もまた試験に及第せんがためになるべく多くのことを暗記せんと勉めておるのである。そもそも大学なるものは知識を与うるところであるのか、そもそも知識を得るのみちを教ゆるところであるのか」と言い、
「哲学館」の理念を、注入主義ではなく、開発主義においたのです。ひろく哲学・思想を教授しましたが、その際には「自由討究」を重んじました。

《思想や精神は決して自然に発達するものではないので、身体を鍛えるのと同様に精神を鍛える必要がある。それが哲学を学ぶことである。したがって哲学はふつう教育として、思想練磨の学として万人に必要なものなのである》という思想に基づく『哲学館』は、16才以上の男子ならば(ここには時代性が現れている)誰でもが入学でき、活気に満ち、大変な人気を博しましたが、1902年(明治35年)に文部省の陰湿な弾圧を受けます(「哲学館事件」)。このとき井上は、不退転の覚悟を持ちつつも、激することなく、冷静に粘り強く事に対処し、権力に頭を下げず、新たな道を模索することで難局を打開していきました。

井上円了は、1912年(大正元年)に二度叙勲を辞退し、「無位無官」、権力の門に屈しない在野の学者・教育者としての生を貫きました。

彼は自分の学問を「田学」と表現しています。
「紳士が田舎にいれば田紳(泥臭い紳士)という。それならば学者が田舎にいれば田学といわれるべきである。これに対して、都会に住み、位階を帯び、官に雇われている学者は、官学とよばれるべきである。・・・鯛の刺身は貴人の膳に上るけれども貧民の口には入らない。しかし、豆腐の田楽は田学に通じ、その調法なることは鯛と比べものにならない。田楽は田学に通じる。自分は田学となり、学問の料理を貴賎貧富を問わず供給することを本文とする」と。

以上は、東洋大学刊の「井上円了の教育理念」-歴史はそのつど現在がつくる、 によりますが、文責は私(武田)にあります。なお、私は東洋大学とは何の関係もありません。念のため。

困難な大事業を、どこにも何にも依存することなく成し遂げたこの偉人=裸の個人に、わたしは深く親鸞(浄土真宗の始祖)の影を見ます。蘇らせるべき日本の伝統とは、このような精神であると思います。明治政府がつくった「近代天皇制」などではけっしてありません。

なお、井上円了については、大変な誤解があり、彼を「国粋主義の中心人物」という仰天するような評価などはその最たるものでしょう。最新刊のちくま新書「哲学者の誕生」(納富信留著)は、大変よい本ですが、この点に関してはひどく無理解で、増刷の時には訂正する必要があるでしょう。東洋大学内にある「井上円了記念学術センター」へ問い合わせれば、上記の本は、非売品ではありますが、入手は可能です。繰り返します。井上の理念は、強制の排除、感性と人間交流の尊重という「私塾の精神」であり、「自由議論」であり、「官学ではなく田学」でした。

9月24日 武田康弘

中野区にある井上円了構想の「哲学堂公園」については、以下をクリック。
中野区ホームページ内の案内。



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