思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

東京国立博物館「古代ギリシャ展」ーーフィロソフィー関連は無しという珍事!(笑)

2016-08-25 | 学芸
 
 
う~~~~ん、
 
古代ギリシャの総覧で、一応、アテネにスポットを当てているのですが、心臓というか頭脳であるソクラテスとプラトン関連はゼロ!! フィロソフィーの神「エロース」(「アカデメイア」の主祭神)の像すらないので、説明もなし。同時代に史上初の民主政を敷いた象徴=ペリクレス関連の展示もない。
 
フィロソフィーを外した古代ギリシャ展は、世界ひろしと言えどもここ、日本だけでしょう(笑) その意味では貴重なギリシャ展でした(笑)。
 
国立博物館の学芸員では荷が重すぎたようです。
 
日本では、フィロソフィーの核心(人間論=主観性の知)を理解する人は稀なのでしょう。いつまでも後進国のよう。

ただし、オリンピックが「個人」を讃えるものであり、国家間競争ではないことは明瞭にしていました。近代オリンピックもその点は同じで、憲章に明記されています。政府やスポーツ関係者は、そのくらいは理解→了解しないといけません。
 
 
武田康弘



fbコメント
泥 憲和
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泥 憲和 真・善・美から真と善に関する考察を取り去って「究極に美しい」と打ち出されてもねえ。
そりゃ哲学をとっぱらってもデザイン的に美しいといえば美しいけど、それだけを味わうのはなんかオタク趣味じゃなかろうかと。
 
 
 
Hiroki Ogasawara
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Hiroki Ogasawara 「美しい日本」をスローガンに掲げた政治屋の行動が、「善」と「真」からはるかに遠い現状とどこかで通底しているような…
 
 
 
武田 康弘
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武田 康弘 この展覧会は、とっても日本を象徴していました。
単なる「事実学」の累積で、本質論=意味論としての知・学が存在しないのが、日本の知の最大の特徴で、それゆえにわたしは、「東大病」「東大教」(受験知という歪んだ知に狂い崇拝する)と名づけましたが、それは、東大出版界の反骨の編集長=竹中さんの獅子奮迅の努力で、金と武田の哲学往復書簡として東大出版会の本にも書き込まれることになりました。
フィロソフィ(=意味と価値の世界=知の最大の営み)を外した表層知、パターン知の訓練だけしかないのが、日本の現状ですが、そのチャンピョンが東大です。
官僚主義に染め上げられている国立博物館は、まさに東大病だな、と再確認しました。毎度のことですが。
古代アテネとは正反対ですので、その展覧会は、心臓+頭脳を抜いたものになるわけです。
同じ国立でも西洋美術館の方がましです。
 
 
追加

アリストテレスのみがあり、肝心かなめのソクラテス→プラトンはなにもなし、ここに後の西ヨーロッパ主義の投影を見ます。せっかく本国ギリシャからですので、西ヨーロッパ的解釈に犯される前の古代ギリシャを見せなければいけないのです。憤まんやるかたなし。

以下は、以前に書いたものの一部です。

紀元前6世紀、タレスに始まる古代ギリシャに起こった(現代のトルコのミレトス)「自然哲学」(自然の素材や動因とは何かを探る)は、200年ほど後、ソクラテスと弟子のプラトンによる発想の大転回で、「恋知」(善美のイデアに憧れ、人生を吟味する生き方)へと変わり、それはさまざまな面白い思想=実践を生みました。

 アリストテレス
「学問の祖」と言われるアリスト
テレスは、恋知の核であるイデア
論を否定したため、哲学の神学化
への道を開くこととなった.

 ところが、プラトン(ソクラテス思想)に教えを受けたアリストテレスは、恋知・哲学の核心であるイデア論を否定し、再び「自然哲学」を中心とする思想に戻ってしまいます。倫理学も自然哲学から導かれるものとなります。
 彼の『自然学』(正式には『自然学講義』)は、自然研究の原理論ですが、『形而上学』第一巻は、『自然学』において定義された概念・思想を前提にしていますので、『自然学』は、アリストテレス哲学全体の原理を提示したもの、と言われます。
 そこには、有名な「四種類の原因」が提示されています。生成と消滅、自然におけるすべての変化の「原因」は4つあり、それは、「質量・素材因」と「形相ないし範型」と「始動因」と「目的因」だとされます。いま詳しい説明は省きますが、問題は、最後の「目的因」です。当然、人間の製作物なら目的はありますが、自然(の変化)に目的があるとは?彼は、自然の研究者は、四原因をすべて知らなければならないと言い、雨が降るのも偶然ではなく、穀物を成長させるという目的がある、と言います。

 この「自然によって存在し生成するものの中には目的が内在する」という主張は、キリスト教が水と油のギリシャ哲学を換骨奪胎していく原因となった、とわたしは見ています。神=創造神が人間を含む全自然をつくったとする一神教であるキリスト教(前身のユダヤ教・旧約聖書に始まる)にとって、人間と自然の一切を説明する「神学≒学問」をつくることは必須でしたが、そのためには、キリスト教思想とは全く異なるギリシャ哲学(世界最高峰の知)を使うほかありませんでした。ソクラテス・プラトンの「善美への希求という座標軸」(それがイデア論の核心)をもつ恋知においては、自然研究(研究者の知的好奇心による)と、人間の生き方(万人にとって必要な探求・吟味)とは次元を異にする知との考え方でしたので使えませんが、アリストテレスの哲学は、すべてにおいて「万能の神の計画」があるというキリスト教神学には好都合で、ピタリとはまります。自然学と倫理学とは一つになり、壮大な物語がつくれますので、全世界・全人類をキリスト教神学≒学問で覆う(支配する)ことが可能となったのです。

 では、なぜ古代ギリシャのアリストテレスが「目的因」という非学問的な思想を哲学の中心に入れたのでしょうか。それは、彼が、知の核心であるイデア論を否定することでタレスに始まるプラトンまでの全ギリシャの知を統一しようとする意図をもったからなのですが、今は詳しくは書けません。
 問題の核心は、 「善美のイデアへの希求」という座標軸がなくなると、人間の生の意味と価値について吟味する足場が失われてしまうので、人間と自然のすべてを貫く「目的因」という物語をつくらざるを得なくなったことにあります。これによって、倫理や政治までも自然学から演繹されることになりましたが、それは、近代のドイツ観念論を通して遠く戦前の日本を代表する哲学者・田辺元(数学・物理学・哲学)にも影響し、天皇制の正当化の理論=「天皇を中心とする日本の国体は、太陽系と同じで、宇宙の原理に合致する」にもなっています。

 このように自然学から意味不明の演繹をする異様な思考は、すべてに目的があるとする神話的な考え=「目的因」と重なっていますが、わたしはそこに、幼児のもつ「万能感」の延長がつくる歪みを感じ、怖さを覚えます。肥大した外的自我の怖さです。それは、国家主義の論理を生み、一人ひとりの生への抑圧を正当化します。更に言えば、自然征服という人類中心のエゴイズムが生じたのも、この「目的因」という強引な概念のねつ造に深因があるように思えます。(武田康弘)

 

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