fb談議
誰であれ、自分の頭の外には出られない。人間は、自他共に「対象分析はできない」という原理中の原理を踏まえている人は、意外と少ない。自己の内に他者を取り込もうと必死になる。不遜の極みだが、自覚がない。よい関係性をつくるには不可欠な前提だ。(武田康弘)
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石谷 真
人間は、自他共に「対象分析はできない」ということの、説明をお願いします。
対象分析が、心理学主義というなら、意識を対象物とみることが、なぜいけないのか、いや、できないと言い切るのか、説明が欲しいです。
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武田 康弘
石谷 真 さん、人間はどこまでも主体者なので、対象にはできないわけです。主体者同士(対象を措定する者同士)は、互いの生の憧憬や欲望を知り合い・語り合うことにより了解するほかなく、客体(対象)にはできないのです。
したがって科学としての心理学は本質的には成立せず、人間精神の意味は、ただ存在論としてだけ知りうるのです⇒現象学的存在論。
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石谷 真
これは主体者と言う言葉を拡大解釈してると思います。武田さんは、ボクにとって客体です。これは、ボク以外の全ての人が、客体です。
例えば、話し合うことができるためには、言葉が通じるか?話し合う意思が、相手にあるか?それを想像しないとできない。それは自分と同じでは無いからです。主体者同士と言うのは、欺瞞です。主体者と客体です。気づいているかどうか?振るのは、ボクが、客体が、気づいていないと考えるからです。対象にできないのでは無く、対象にして欲しくないだけではないですか?
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武田 康弘
対象にすれば、「対象となった人」が捉えられるだけであり、生きた主体者は消えてしまいます。人間はいない。
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石谷 真
武田 康弘 様
主体者が、生きているかどうかは、対象にするかどうかとは、分けないと。例えば鏡を見て、自分の顔を知ることは、ここのヒゲ剃れてい無いとか、言うことは、生きているかどうか、とは関係無いです。鏡の対象にしたからと言って、人間はいなくならない。対象にしたヒトの見せ方を指摘しても、人間を、否定していません。ボクにはこう見えるよ。それで良いのではないですか?
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武田 康弘
ぼくにはこう見える、でよいですが、
それでは心理学にはならないのではないですか?
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石谷 真
武田 康弘 様
ボクにはこう見えるよ。は、カウンセリングの基本です。だから心理学です。
具体的には、こう見えると伝えることで、相手の反応を見る。眉間に皺が寄ってますね。とか、ニコニコしてますね。とか、そういうことです。主観で観るので、笑って無くてもニコニコしてますねとは、言います。オドオドしてるように見えます。とも言うので、正しいかどうかとは、別ですが…。まぁ心理学とは、本質を探る技の様なものというボクの解釈です。
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武田 康弘
カウンセリングが必要な人には、その人に寄り添ってあげる人が必要なのは分かりますが、
心理学という一個別科学があり、それにより人間存在のありようが分かるはずと考えるならば、明らかに誤謬と思います。人間存在は「主観性の知」により掬い取るようにしか知れないですし、互いの憧憬・欲望を分かり合うことで了解するしかない、と考えます。
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石谷 真
武田 康弘 様
カウンセリングをメインにした、心理学の考えでは、対人関係を重視します。つまり関係論です。
心理学は、分析する場合もありますが、いろんな考え方があるので、コミュニケーションの訓練としても、使えるケースもあるのです。
後、人間存在のありようが分かるとか、言う前に、楽天的に考えさせる方法とか、生き辛くない生き方とか、方法論を考えさせることもあり、心理学全否定ではそれはそれで生き辛いと思います。
ひとつ例を出せば、例えば、他人が、あなたの噂話をしています。その噂話は、良い話ですか?悪口ですか?というのがあります。
多くのヒトが、悪口と考えます。特に心理的に落ち込んでるヒトは、悪口と考えます。
でも心理学としては、これはフラットに考えないといけない。噂話=悪口という考えにクサビを打ち込みます。方法論としては、噂話=良い話と仮定した方が生き易い。そういう意味で心理学に良い面があります。
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武田 康弘
心理学の善用は結構なことですので、異論はありません。
「心理学という一個別科学により人間存在のありようが分かるとするのは明らかに誤謬」ーそれがわたしの見解です。最初のとおり、人間を対象認識で分かるとする構えは、哲学(人間存在論)の原理上、ありえませんので。
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石谷 真
サルトルのイマジネールの副題は、想像力の現象学的心理学です。存在と無の実存的精神分析を推奨するなら、心理学ということで、全否定するのではなく、対象認識で分かる部分、例えば医学的なこと、とか、人間存在論の原理にこだわる意味がもう一つよく分からない。
街中で、ブツブツ言ってるひとは、やはりおかしいとか、心理学の原理もあるのです。
ていうか、サルトルの実存的精神分析が、優れていると思う点は、武田さんにとって何ですか?現象学的心理学と、一般的な心理学の違いとは?
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武田 康弘
現象学的、という意味は、従来の心理学とは根本的に異なるという意味です。サルトルが青年期、現象学との衝撃的出合いにより、実存的回心を起こしたのです。
いま、外出(とわの会での恋知講座)するところですので、詳しくはまた後で。
武田 康弘
現象学を方法論として踏まえたサルトルは、対象認識により分かる人間心理は、対象となった人間の心理でしかない、と看破しました。
「浄化的反省」という作用がないと、いつまでも反省意識の地平に留まってしまい、非反省的意識(フッサールの言葉では純粋意識)を顕在化させることができません。
自己正当化の底意を取り払って、反省を浄化させるには、各自の根源的選択が何かを探りださないとなりませんが、その目的は、人間の諸行動の意味を解読することです。出発点は、生活世界の具体的経験です。
対象分析(相手を客体として扱う)ではなく、寄り添い、語り合うことでしか意味の解読はできないのです。
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石谷 真
武田 康弘 様
寄り添い、語り合いこと、は、カウンセリングに近いですね。
対象分析を、どうやら、狭く捉えている様に思われます。
フロイトはどこまでも、精神科学に拘りましたが、多くの心理学者は、それ程、拘ってはいません。
それよりも今、流行りの、解決させるための認知療法とかが、精神科学的なのかも知れない。
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武田 康弘
よいカウセラーは、実行しているのでしょうね。
人間関係は、【対象化したら終わり】です。【相互主観性をそのまま生きる】というのが幼い子からお年寄りまでとのわたしの人間関係の中心・土台で、基本的態度です。
なので、わたしを対象化しようとする人は、大勢いましたが、みな自然と縁がなくなり断絶しました。わたしは、その人個人を対象化しませんので(=それが存在論的に優れた態度)、今の世の多くの人とは、折り合いが悪いでしょう。でも、多くの支持者、とりわけ子供たちと、人生経験の長い高齢者にはとても信頼され、愛されています。ただし、こどもも成長して【一般化の海】に沈んでしまえば、わたしとの交際は終わります。
その人 個人を対象化しない=その人を概念化しない=言葉に閉じ込めないというのは、【恋知する実存者】の究極の基盤です。