思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

かつての名演が色を失う、恐るべきノット・東響のブルックナー9番(2018.4.15)

2018-04-15 | 芸術

正直言うと、今日の演奏会は、あまりに凄過ぎて、感想の書きようがない。

マーラーの最後の作品となった10番のアダージョから始まった。透明で凝縮された美しさだが、硬質さは全くなく、情愛に満ちた名演。

次にブルックナーの最後の交響曲9番。これはかつて聞いたことのない超ド級の名演で、二楽章のスケルツオの剛毅かつ柔軟な迫力には開いた口がふさがらない。心臓が高鳴り、感動から涙が出そうになった。スケルツオで泣けるとはどういうことなのか。

3楽章アダージョの強靭さにも舌を巻く。なぜこんなにも豊かで、触れるような実在感があるのか。9番は4楽章を完成する前にブルックナーは死去して未完成だが、これでよいと強く感じた。シューベルトの未完成と同じで、このアダージョの後には何も付け足してほしくない。

 司祭の息子なのに(だからか?笑)ノットは、神を志向したブルックナーから神を消して、人間への愛の音楽に変えてしまった。宇宙でもなく、神でもなく、人間。心身全体で生きる人間への賛歌だが、それは眩い輝きを放つイデアとしての人間、あるいはニーチェがいう超人のようでもある。善美に憧れ、強く豊かな肉体をもった人間への賛歌で、その美しさのエネルギーに呆然となった。

 これほど深く大きな感動をもった9番の演奏はかつて聞いたことがない。間違いなく歴史に刻まれるであろう超名演の中にいる自分の幸せをひしひしと感じた。

(昨日のサントリーホールでの演奏は、NHKが収録したとのことですし、今日の川崎ミューザの演奏は、オクタヴィアレコードが収録していましたので、SACDで発売されるはずです。)

武田康弘

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