思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

惰性態から能動態への跳躍を可能とする新たな哲学を

2010-03-10 | 恋知(哲学)

下のブログからの続きです。


わたしの姿形やわたしの住む世界は、わたしが決めたものではありませんし、さまざまな事象や出来事もわたしが起こしたものではありません。わたしが選べるのは、すでにある状況の中のひとコマです。

そういう意味では、わたしは受動的な存在だと言えます。これは、大きな目で見れば、地球は宇宙の中の小さな惑星だ、というのと同じです。確かに、地球環境のことを考えるときにも宇宙をメージするのは大事なことで、それは想念を広げ、複眼的な見方をもたらします。

しかし、受動性の感覚を持つだけでは、現実の生はひとつも前に進みません。深い受動性の感覚の上に、人間存在の能動性の次元を打ち立て、その領野を開拓することが重要な課題になります。

状況に主体的に関わる人間存在の意味と価値を明らかにし、能動的な哲学を創り出す営みがないと、人間の生は、既成価値の中で決まった役割をこなすだけの存在に陥ります。自分からはじまる生の意味は希薄になり、「眼差し返す力」に乏しい受動的な存在にしかなれません。「私」は「一般化の海」に沈んでしまうのです。

機械化・システム化・管理化が進む現代社会の中では、何もしなければ、人間は受動的な惰性態に陥りほかありません。能動性に主眼を置く人間存在の哲学を生み出す努力は、意味充実の生を営むための基盤です。ところが、ここ30年以上にわたり哲学・思想の世界はこの努力を怠たり、状況に合わせて自らの色を変えるカメレオンか、旧態依然のアカディミズム安寧哲学か、そのどちらかでしかなく、状況を穿ち・改変し・新たな世界を生み出す力をもった哲学思想、根源的な生のパトスに支えられた大胆で強靭な思索は消え、パトスは「日本万歳」を叫ぶ愚かなネットウヨクの専売特許になってしまいました。

主権在民に基づく民主主義とは、能動的な哲学・存在論に支えられなければ、単なる形式でしかなくなり、その力は萎えてしまうのです。受動的な存在論に支配され、能動的な行為に乏しければ、人間は実存としての光を失い、非人間的・画一的な管理社会しか得られません。生きる悦びに乏しく、意味の希薄な人生しか与えられなければ、みなでよい社会を生みだそうという「公共性」は元から崩れてしまいます。

いま何よりも求められるのは、惰性態から能動態への跳躍であり、それを可能とする能動的な人間像であり、それを生み出す能動的な存在論=哲学なのです。組織や団体、権威や権力ではなく、「ひとり一人から始まる能動性」なくしては、何も始まらず、何もなし得ず、何も意味を持ちません。


武田康弘


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