思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

感情の絶対化と感情の豊かさとの違いは?主観性の発達/客観学の目的化

2006-08-07 | 日記
以下、コメントを記事にします。

[ 智子 ] [2006/08/06 11:41]
先生、ブログを拝読しました。いつも勉強させていただいています。質問で恐縮なのですが、感情豊かに生きるということは私にとっては素晴らしいことのように思える反面、わがままに生きることのようにも思えて、躊躇してしまいます。感情を表すことが(素直に生きること)は他者を傷つけることになると思うと自分を抑えてしまいます。あるいはわがままな子供と他者に映ることを怖れているのかもしれません。わがままであることと感情豊かに生きることにはどういう違いがあるのでしょうか。また先生も批判されている浅薄な感情の絶対化と感情豊かに生きることとはどういう違いがあるのでしょうか?
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[ タケセン ] [2006/08/06 14:22]
智子さん、コメント、ありがとう。
わがまま、おおいに結構です(笑) 自芽=「自我の芽」は、わがままが肯定されると階段を上り、成長しますが、否定されると、わがままを内的には克服出来ず、外的に上手にふるまう(誤魔化す)だけの人間になってしまいます。実存次元での嘘=空白の生の上に社会性の仮面をつけた「外的人間」(根源的な不幸人)の誕生!です。
外的人間は、ステレオタイプの感情しか持てないために、自己の感情世界が発展せず、感情豊かに生きることができません。感情の発達とは、主観性の発達と同義ですが、わが国では、主観性が悪であるかのような刷り込みが行われているために、感情も論理も共に発達しないというわけです。
「主観性消去の詐術」(クリック) と、 「おどけ・ふざけ・悪さこそ」(クリック) をご参照ください。
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[ 智子 ] [2006/08/06 16:21]
丁寧にお答えくださって、ありがとうございます。自分はわがままを内的に克服できずに成長してしまったのだなあと今更ながらに思います。今から自分を育てるのはなかなか難しいかもしれませんが(成長するために未発達な感情を表現した結果、他者との間に軋轢が生まれることは怖いことでもあります)、努力してみようと思います。また質問させていただくと思いますが、どうかよろしくお願いします。
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[ タケセン ] [2006/08/07 09:36]
「私」のありのままの感情を見据えるのは、何より「私」にとって怖いことかもしれません。
私が見るところ、ほとんどの日本人は、外的なしつけを受けるか、甘やかされるかのどちらかですが、この両者はひとつメダルの表裏でしかありません。ともに主観性の発達=自芽の成長がありません。
日本では勉強するとは、客観学の習得のみを指します。思想や哲学の分野でも客観的真理!?を求める有様です。思想とは、主観性の深化・拡大によって開かれる普遍性であるという本質論的了解が、とりわけアカデミズム(学校知)にはありません。たとえば自由や平等の理念や人権という思想は、一人ひとりの実存の生・生活世界の体験を反省し思考することで生じたのであり、客観学はその主観性が生んだ普遍了解性を前提にして成立するに過ぎないのです。
ところが、ほとんどの人は、この本質論的な了解がないままに勉強する(させられる)ために、勉強・学問とは、物知りになることと技術知を身に付けることだと思ってしまいます。人間としての深められたエロース・内的成長・生きる意味充実の世界・強靭な人間力とは無縁の知が跋扈するわけです。手段としての知=客観学が目的化されるわけですが、これは感情が紋切り型でしかなく、自由で豊かな発達がないことと重なる問題です。
幼児的な「感情」と恋知(哲学)の営みなき「技術」(やりかた)だけしかない。「私」が生きる意味を考え創り出す「思想」に支えられたほんものの知が成立しないのです。 あるのは、大学に自閉する講壇哲学か、ことば遊戯のオタク思想くらいです(笑)。
生活体験に支えられた根のある知と豊かな感情の発達とはひとつです。
智子さん、よい質問をありがとうございました。

武田康弘





コメント
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