へなちょこかいご

アルツハイマー型認知症・80代の母との暮らしで思う事。
母は2021年秋に亡くなりました。父の事も少し。

父、倒れる。

2023年04月25日 | 父のこと
食道がんの手術から7年後。

父は1人で外出し、帰宅するためバス停に向かう途中で倒れました。

近くに居合わせた方々が様子を見てくれたり、

救急車を呼んでくれたりしたようで、

父はすぐさま搬送されました。

その頃、私も1人で買い物に出ていまして、

帰宅すると母が、父が倒れて救急車で運ばれたと、どうしていいかわからない様子。

固定電話の横のメモを見ると、病院名が書いてあったので、

母は認知症と診断されて2年目でしたが、

電話の内容を覚えていたこと、連絡を受けながら書き留めたことが

ありがたく、大助かりでした。

すぐ病院に電話を入れ、医師と話し、病院に向かいました。

検査の間しばらく待ち、医師が来て、ご本人とのご関係は、と聞かれ、

私が「長女です」と言うと、母が「私も長女です」

それは母のきょうだいの中では長女だけど。

医師が、奥様ですね、ではこちらでお話しいたします、と促す間、

母は自分の言ったことに大笑いし、のけぞった拍子に

壁に頭をぶつけていました。

医師は苦笑。

廊下を歩きながら私は、父は絶対元気だ、と確信していました。

救急用のベッドで寝ていた父は思った通りしっかりしており、

自分の荷物についてあそこにあるあれをこうして持って帰れ、などと指示を出しました。

検査の結果、おそらく誤嚥からの肺炎で胸水が溜まっていて、

400cc抜いたと。

それは苦しかっただろうな、としんみりしながら、メモを取りました。

父は60代で耳鼻科への入院を機に禁煙に成功しましたが、

それまでの喫煙で肺機能が低下していました。

治療、検査での入院が決まり、医師から、

「退院後は在宅介護が必須になります」と言われ、

しんみりがどんよりになりました。

「延命をどうするかご家族で話し合って下さい」とも言われましたが、

父の気、念の強さを感じましたし、先の見えない闘病がとにかく不安でした。


母は、緊急の電話連絡によく対応していましたが、

その後しばらくの間、

「お父さん倒れた時に助けてくれた人は東京に帰るところだった」

「私、その人に菓子折り持って行ったんだよ」

「受け取らないから、持って帰ってあんたと2人で食べたんだ」

などと言っていました。もちろん作話です。

でも、それくらいありがたかったのでしょうか。

私も同じ気持ちでした。





父の食道がん

2023年04月23日 | 父のこと
大腸がんの術後3年目の定期検査で、

食道がんが疑われました。

内視鏡による手術のため入院。

病院の都合で個室になったため、母と私は病室で待機。

のんびりとテレビで『渡る世間は鬼ばかり』の再放送を

見たりしていました。

そこへ医師が急いだ様子で現れたので、

何かあったのかと身構えると、

直前の検査、準備の段階で

むせて誤嚥してしまい、手術は中止になりました、とのこと。

父は元々とてもむせやすく、咳き込むことが多かったです。

その後、発熱しましたがなんとか回復し、再挑戦。

しかし2度目の手術でも、内視鏡を入れる途中でむせて、中止に。

一旦、退院しました。

再入院は1ヶ月後で、今度は全身麻酔での内視鏡手術に。

がんは取り切れているだろうとの説明でしたが、

首に近い、とても難しい所で、父の食道が元々細いため、

今後の手術、加療は負担が大きいとのこと。

ただ、術後に潰瘍があり、食道の狭窄のため

通院でバルーンによる治療をすることになりました。

胃カメラの先に風船のようなものをつけて、食道を膨らませるようです。

バルーンの後は、飲食は数時間置いてからと言われていたので、

午前中に終わり、私の車で帰宅して落ち着いてから昼食と思いましたが、

朝から飲まず食わずで検査、治療をした父は空腹に耐えられず、

また、時間通りに物事を進めたい性格。

会計が終わってちょうど昼近くになるので、院内のレストランに駆け込みます。

まだだめだよ、と言っても聞かず、熱いラーメンを。

治療は何度か続けましたが、

カメラも通りにくくなるほどの稀な狭さで、治療の限界だと。

その後は半年に1度、CTと胃カメラの検査。

食道は狭いけれど日常生活に支障がないようなのでと、

5年後から年1に。

年1の検査も問題なく経過し、

食道がんの手術から8年後、父は外出中の信号待ちで倒れ、

救急搬送されました。

そこから父の最後の闘病、在宅介護が始まりました。









父の大腸がん

2023年04月22日 | 父のこと
父は70代に2ヶ所のがんの手術をしました。

今から20年ほど前ですね。

健康に自負のあった父は

お腹のチクッとした痛みを、まあたいしたことないだろうと

様子見していたそうです。

それにしても痛いなあと、とりあえず行ってみた小さな医院から

大きな病院を紹介され、検査の結果ががん。

腹腔鏡手術で転移していたリンパも取りました。

年齢的なこともあり抗がん剤はなし。

いくつかあったポリープは半年後に取ることに。

父はストレッチャーで手術室に入るまで冗談を言い、

術後には

「死ななかった〜」

と笑っていました。

見舞いに行くたび、父は元気で、回復具合や同室の患者さんの悪口など

聞かせられました。

定期検査の結果、ポリープは全て消滅したり小さくなっており、

退院後の年2回の定期検査も数年後には年1になり、

術後9年目に、問題なし、検査終了となりました。

私と母は、良かったねぇとほっとしましたが、

父はなんだかがっかりしていました。

父の主治医は、大ざっぱに言うと、えらい先生で、

安心しておまかせだったのが、

見放されたように感じたみたいでした。

そういえばはっきりとした病名は父には知らせていなかったようです。

最初の小さい病院で、「がんですか?」と聞き、それはこれからの検査で、

と言われ、勘づいてはいたようですが。

病院側から家族への手術の説明の後、

病室で待ち構えていた父に

「長かったな。がんだからか?」と言われ、

退院後の食生活について話があったんだよ、とごまかしましたし。

退院後の食生活の話は、退院直前に本当にあり、

母が指導を受けたのですが、

その時は、1番いいのはヤクルトミルミルだと聞き、

箱買いしたのを覚えています。


父は退院の際、書類の病名の欄を指でとんとんと示してニヤリとしていました。


父は昔から、受診して診察名がついたとしたら間違いなく

過敏性腸症候群で、特に父の出勤、外出前に私はトイレに行くことができませんでした。

家を出るギリギリまで何度も父がトイレに入るからです。

1度出た後引き返してトイレに駆け込んだ事もあるので、

父が出て1拍置いてよし、となるのでした。


退院して家に着いて、最初に父がしたことは、

資源ごみに出すため、母が新聞紙を重ねてヒモでしばっていた物を見つけ、

ヒモをほどいて新聞紙をきっちりたたみ直し、重ね直し、

ぎゅうぎゅうにしばり直すことでした。


その他は問題なく、過ごしていましたが、

大腸の定期検査で転移がないか詳しく行っていた項目の

胃カメラで新たながんが見つかったのでした。





1年半

2023年04月21日 | 日記
母が亡くなって1年半経ちました。

誰かが、誰かを亡くして3年…と聞くと、

まだ亡くして間もないと思います。

4年、5年でもそう思います。

なので、

まだたったの1年半なんだなあという感じです。



ずっとノートやメモ帳に書き続けていた両親の病気、介護の記録、自分の気持ちなどを

少しずつまとめたいと思います。

まず、父のことから記していくつもりです。

父の入院、在宅介護は短期間なので、すぐ終わると思いますが。