きぼう屋

生きているから生きている

安息

2009年03月08日 | 教会のこと
今週の週報巻頭言です。

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「安息」

いよいよ年度末。
商売人もサラリーマンも忙しい季節です。
教会もとりわけ総務関係の奉仕がいつも以上に必要とされる時期です。
いや、もしかすると、
今の私たちの社会は、常に忙しく、
それは時期的な忙しさがぼやけるほどかも知れません。

そんな中で、
私は「安息」と、その必要性を考えざるを得ません。
私たちには休みが必要ですし、それも積極的に休むことが必要だと考えます。
しかし、何がどうなったら私たちは本当の「休み」を得、心身が癒され、活力を回復するのでしょうか。

聖書が教えてくれるのは、
休みは礼拝という行為であることです。
ここには私たちの感覚におけるところの矛盾が最前列に置かれています。
つまり、休むけれど行為するという矛盾です。

けれども、信仰における認識では矛盾しません。
つまり、私たちは礼拝において、
わたしが行為するのを断念し、神の行為にすべてを委ねることをするからです。

さらに言うなら、
教会における伝道、礼典、教育、音楽、総務、会計などなどの奉仕も、
神が行為するところにゆだねるからこその、私たちの行為です。

でも繰り返しますが、
私たちの感覚では、
私たちが行為するからには休みにならず、
礼拝し奉仕するほどに、安息どころか疲労がたまることにもなります。
だからここは信仰のひとつのチャレンジポイントです。

つまり礼拝と奉仕の行為と責任においては、
それ以外の行為と責任において発生するストレスや疲労がない!
というフィールドを信じて足を踏み入れるかどうか、
あるいは、そういう奇跡と出会うことを目指すかどうか、
が、わたしたちの信仰生活における最たるチャレンジなわけです。

といいましても、
牧師たちが疲労から病気になるケースが世界的に多々あることも周知の事実でして、
このチャレンジはどちらかというと希望をいただく出来事なのだろうとも思います。

だから
絶対に礼拝と奉仕を休まない!なんていうことは
罪人たる私たちには無理なことであるけれども、
しかしそれでも日々信仰なる心身が養われて、
礼拝と奉仕の責任が、
つまり他者と共に祈り生きる生活が、
疲労回復のための最たる神からの出来事であることを、
丁寧に経験できればと願ってやみません。

安息は、礼拝や奉仕をも含めて全部を休むことではなく、
礼拝や奉仕で神にゆだねることから発生するところの、
私たちの行為と責任を生きることにおいて起こる、
真の休みであることを、
共に信じることがゆるされるなら幸いです。