きぼう屋

生きているから生きている

開く

2009年03月23日 | 「生きる」こと
いよいよ当教会の庭整備が始まりました

庭整備のポイントは
なにしろ開かれること!!
です

正直に反省していることですが
当教会は14年前の建築で教会堂が新しくなった際に
いろいろと閉じていたのだろうと思います
ソフト面もハード面も・・・です

だから
通りと教会堂の間に、大きな塀が建ったわけです
しかし今回
その塀を壊して教会の中が通りからよーく見えるようにします

礼拝をしているところはもちろん
礼拝の準備をしているところや
みんなで掃除をしているところや
あるいは
わたしが午前の1時間ほど
教会堂でひとりで軽く掃除をしながら
ストレッチなどをしている姿もきっと見えるだろうと思います
教会堂内をはだしで足の裏をマッサージする感覚でぐるぐるジョギングしているときもありますし

そういうのを遠慮なくどんどん覗いてほしいと思います

また
庭に教会に集う人たちが気持ちよく出られるように
まさ土塗装をします
庭にどんどんでるということは
教会が開かれることでもあります
そもそも宗教にとって庭といいますか、境内はとても大切でして
すこしでもそういう庭になったらいいと思います

まさ土と花壇の境目は
当教会メンバーのKさんのお店や
当教会の親戚の日本バプテスト病院から
ごろた石を頂き、それを並べます

これはとても面白くて
石を見ると
Kさんや病院、看護学校などを想起するという
まさに開かれる経験をすることにもなります

そして本日は早朝から
その第一弾として
木々の伐採と剪定が行われました

腐ってしまったイチョウの雌は伐採しまして
もう
なくなってしまいました

勝手に涙がこぼれますが

しかし
昨日の子どもメッセージで
教会の長老S兄が
壊す時と立てる時の話をしてくださり
(これが驚くほどの完成度の高い説教でして
 信徒の説教がこのレベルにあるならば
 バプテストは原理のとおりに
 説教家としての牧師はいらないなあ
 と本気で思いました
 でも牧会家としての牧師はまだまだ必要だと思うわけでもありますが・・・)
そのメッセージに励まされ、祈るわけです

また昨日昼過ぎには
切られてしまうメスのいちょうに
教会を支えるパワフルな女性たちが
抱きついて
といいますか
しがみついて
別れを惜しんでおりまして・・・

またその写真もとてもたのしい写真として出来上がっておりまして・・・

こういう写真こそ
歴史を本当に伝えるのだなあ

と感激しております

また女性たちの活き活きとした姿にはいつも感動しております


さてさて
昨日は三年半前に小学生たちが建てた「みんなの家」のお別れ会をしました

天候があやしかったこともあり
かっちりしたお別れ会にはならなかったのですが
しかし
みんなで最後に雑巾をもって
みんなで掃除して
そして記念撮影をしました


こちらは来週取り壊しになると思いますが
そのときは本日のいちょうの雌どころではすまないほどに
涙があふれるだろうなあと
今から心配しております

なんてキーボードをうちながら
もう目頭があつくなっております


昨日の礼拝説教は
今一度
開くことと閉じること
をテーマとしました

全体と個とか
個人と家族と民族と国家とか

というのは

それらの違いを述べて互いに批判するというものではなくて
全体であろうと個であろうと
個人であろうと国家であろうと

それが閉じていると
すべて共鳴し
同じ方向で走り出す
というところが問題なのだ

ということを分かち合いました

そして
神は私たちに「開く」賜物をあたえ
それも
ゆるしと和解が備えられるゆえに安心して「開く」ことができる出来事をあたえ

「開く」
からこそ
それぞれが同化することなく共に生きることが起こされる

ことを分かち合いました

というわけで


キリストの体
というテーマから
チーム・キリスト
を語りだした当教会は

開き合うチーム
という内実を吟味しはじめようとしております


さてさて
一つ前の怪しい記事の中で触れたように
わたしはもう
遠慮なく責任をもって
この場所で歩むことができるようになったので
遠慮なく
どんどんみなさんに教会に来ていただきたく願うわけです

開き合うチームとして
つまり
本質的な意味での家族として

ぜひ共に歩みたく願います

みなさんの交わりと健康と生活が祝されますように

アーメン

よき知らせ

2009年03月23日 | 「生きる」こと
本日(もう昨日ですねえ)は結婚記念日でして・・・
やっぱりうれしいわけです。。。

出会い続けることはこれ以上ない奇跡ですし
そのことを今年も確認できるのは
最大の喜びなわけです



さらに夜半近くに
もうひとつなんともうれしい知らせが飛び込んできました

この半年間
ぼくら家族を不安定にしていた事情から

すっきりと解放されるという知らせがいきなり携帯から飛び込んできたわけです

それも良くも悪くも
神のみこころかどうかはわからないけれども
わたしの自我においては
望んでいた方向で解決したので
なんだか変にうれしくて
疲れているのに眠れなくなるほど興奮してしまいました

だからもう一度牧師室にいって
教会の関係者名簿を開いて
祈ってきました


そしたら
あらら
涙が止まりませんでした



ここまで書いておいて
どういう知らせだったかというのは
とっても身近な人に直接伝えるくらいしかできないのですが


きわめて抽象的にいうと

わたしは
いま
出会い続けているみなさんと
腰をすえて
さらに出会い続けることがゆるされる

という環境を確保することができました

この半年間は
今考えると
はざ間に置かれていて
ほんとうは必要ないけれども
遠慮してしまったり
積極的になれなかったりしておりまして・・・


でも
これでもって
まさに今担うことが許されている数々の業に
遠慮なく向かうことができます


とりわけ京都の
教会の内外を問わずすべての共に歩んでくださっているみなさま

今後ともよろしくおねがいいたします


よかったあ!