きぼう屋

生きているから生きている

信仰共同体

2009年03月01日 | 教会のこと
今週の週報巻頭言です

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「信仰家族」

先週の日曜日に、私たちは定期総会を持つことが許され、
2008年度の活動を感謝し、さらに2009年度の希望を頂きました。

私たちは、主イエス・キリストによって呼び集められ、和解せられ、つなげられたところの、
共に生きる群れです。
互いに祈りあい、慰め励ましあい、支えあい、
信仰と精神が成熟しあう群れです。
そして先週の総会で、厚く深く「共に」を実感できたなら幸いです。

私は聖書から知る信仰生活にこだわりたいと願います。
それは、時代地域の雰囲気に流されない信仰生活です。
だからこのところはもっとも気をつける部分でもあります。

戦後の日本では、
相当に注意し徹底して共に生きることにこだわった教会でないかぎり、
戦後の日本の企業社会の雰囲気の範囲内で
信仰生活を形作ることがほとんどだろうと思います。
それは言葉化こそされないけれども、暗黙の了解を得ている感覚となっています。
暗黙のうちに、人と人との距離が定められ、互いに干渉してはいけない場所が定められています。

しかし、私はそのような距離や場所を
キリストの十字架の出来事が吹き飛ばすゆえに、
信仰によりまさに家族として共に生きることを、今後も目指したいのです。

先週木曜日に、J家に待望の第一子が誕生しました。
Mくんと名づけられました。
心からお祝いを申し上げます。

教会という信仰共同体で生きておりますと、
こちらがどんなに年を重ねても、
いつでも生まれたての生命と出会うことがゆるされることに、
驚きをもって主に感謝するばかりです。
同時にどんなに若くても、
いつでもおじいちゃん、おばあちゃんと出会うことができることも、
まさに主の奇跡であり、この時代は教会独特のものと言ってもいい事柄です。

これは、
みんながみんなの子どもで、
みんながみんなの親で、
みんながみんなの兄弟姉妹であるという、
キリストの奇跡の業(これぞ奇跡!)ゆえのことです。

この主の豊かなメッセージを、
教会は永遠に大切にしていきたいですし、
ほんの少しでも軽んじたりこぼしたりするなら、それはあまりにもったいないことなのだと思います。

私たちは、
企業を信仰する家族も、
お金を信仰する家族も超えたところの、

キリストによる!信仰家族です。