きぼう屋

生きているから生きている

統合

2007年07月02日 | 「生きる」こと
ホーリスティックに生きる

統合的と言いましょうか
総合的と言いましょうか

それが決定的に大切だと痛感します

人は不思議と事柄を分解します
脳みそが優秀なのでしょうか

いえいえ
単に
生物の本性として
自らの生命保持のために
それが苦しむことなくできるために
人間は分解して
分解した中のひとつに責任なり問題を当てはめ
分解した中のひとつ以外は無関係とするのだろうと思います

でも例えば身体はそうはいきません
精神も含めて
どこかがわるければ他の部分もわるくなります

人格もそうです
精神や魂と身体をわけることはできないばかりか
過去と今と将来をわけることもできず
わたしとあなたをわけることもできないでしょう

人格には個人の人格と共同体人格があります

個人の人格の場合
苦しむことをしないため
問題や責任は
過去のこととして切り離しすっきりします

共同体人格の場合
苦しむことをしないため
問題や責任を
誰かの個人的なこととして切り離しすっきりします

そうすると見えてきます
ホーリスティックに生きるとはなにか

それは
出会いを重ねた関係性に生きるということ

単純です
苦しいから出会いから逃げるときは
自分の感情や感覚、抽象的な思想に縛られ
そこから行動します

だから
出会ってもいないのに
かかわってもいないのに
なぜか判断・評価が下されたりします

出会いをいただくときは
そこで繰り返し触発されることで
どんどん分解されたものがつながっていきます

問題や責任もつながり
そこでは罪と苦しみの共有もおこります

それを歴史ということでしょう

そしてそこでは出会いの中での決断の繰り返しという歩みが残るばかりです

感情や感覚、抽象的な思想が二義的なものでしかないことを
身体で知ることができます

そして生きるということはこういう関係性であり
それがないということは死んでいるということです
(ユンゲルなどのことば)

さて
今からホームレス支援炊き出し

寄り添いネットの活動も8年目
なにしろダイナミックで楽しい
まさに生きる場

不思議と
まったくかかわらない人が
寄り添いネットを批評することが多く

かかわる人は
出会いにおけるひとつひとつの決断作業に
祈りをもって向かうことで精一杯で
いや
それ以上は実は必要なく
まさにそれこそ生きているということであるからして

そう
まさに生きているわけで

生きていることは本当に楽しいのです

出会いの只中での決断の繰り返し
この中はどちらかというと苦しみが多い
しかし
そこで十字架に出会います
さらに復活に出会います

そこではじめて信仰が語られます

神の国は只中にある(ルカ福音書)


キリスト教会は
なぜか
社会と教会
政治と教会
身体と魂
行為と信仰
と分けることが多い・・・

すると
過去と今と将来
あなたとわたし
もすっきり分ける・・・

でも知らねばならないでしょう
そういう分解された中に
十字架も復活も信仰もないことを・・・

わたしたちがきっちりわけるべきものはただひとつ

神とその他のすべて

でも
神と自分をくっつけたり
神と教会をくっつけたりすると

他のものを分解しはじめる・・・

つまりそこでは

自分が神になってしまうのでしょう


寄り添いネットは楽しい
出会いしかすることがないから・・・
さあ
出かけようっと

そうそう
出会わなきゃ本当に損ですよ

ぜひぜひ
ご一緒に