朝明けに

聖書のことばから、うれしい一日一日の糧を!

約束の言葉のとおりに、変わることなく

2016-06-25 08:36:14 | 聖書から
主の慈しみは、
  主の契約を守る人、
   命令を心に留めて行う人に及ぶ。詩編103:17~18

 イエス・キリストは、
きのうも今日も、
また永遠に変わることのない方です。ヘブル書13:8

      (ローズンゲン日々の聖句6/25;土)

 人は、草のように、野の花のように過ぎ去るのですね。
だから、人が考え出したさまざまな新しい教え、異なった教えに心を向ける必要はないのだそうです。

 詩編の作者は謳います。

「わがたましいよ。主をほめたたえよ。
私のうちにあるすべてのものよ。
聖なる御名をほめたたえよ。
主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。
主は、あなたのすべての咎(とが)を赦し、
あなたのすべての病をいやし、
あなたのいのちを穴から贖(あがな)い、
あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、
あなたの一生を良いもので満たされる。
あなたの若さは、鷲のように、新しくなる。

主はすべてしいたげられている人々のために、
正義とさばきを行われる。
主は、ご自身の道をモーセに、
そのみわざをイスラエルの子らに示された。
主は、あわれみ深く、情け深い。
怒るのにおそく、恵み豊かである。
主は、絶えず争ってはおられない。
いつまでも、怒ってはおられない。
私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、
私たちの咎に従って
私たちに報いることもない。
天が地上はるかに高いように、
御恵みは、主を畏れる者の上に大きい。
東が西から遠く離れているように、
私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。
父がその子をあわれむように、
主はご自身を恐れる者をあわれまれる。
主は、私たちの成り立ちを知り、
私たちがちりにすぎないことを
心に留めておられる。

人の日は、草のよう。
野の花のように咲く。
風がそこを過ぎ去ると、それは、もはやない。
その場所すら、それを、知らない。
しかし、主の恵みは、とこしえから、とこしえまで、
主を恐れる者の上にある。
主の義はその子らの子に及び、
主の契約を守る者、
その戒めを心に留めて、行う者に及ぶ」(詩篇103:1~18新改訳)と。

私たちにも。
今日も。
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すべての人が、新しく生きる者になって欲しいと

2016-06-24 08:35:27 | 聖書から
私と共に主をたたえよ。

  ひとつになって御名をあがめよう。詩編34:4




 神から遣わされた一人の人がいた。

その名はヨハネである。

彼は光について証しするため、

また、すべての人が

彼によって信じるようになるために来た。ヨハネ1:6〜7




      (ローズンゲン日々の聖句6/24;金)




 ダビデがイスラエルの王になる前のこと、イスラエルの王、サウルの手を逃れて隣国ガテに逃げたとき、ガテの王アキシュにダビデのであることを見破られ、ダビデが気が違った者のように振舞ってアキシュのもとを逃れた時のことでしょうか。




ダビデは謳いました。

「私はあらゆる時に主をほめたたえる。

私の口には、いつも、主への賛美がある。

私のたましいは主を誇る。

貧しい者はそれを聞いて喜ぶ。

私とともに主をほめよ。

ともに御名をあがめよう。

私が主に求めると、主は答えてくださった。

私をすべての恐怖から救い出してくださった。

彼らが主を仰ぎ見ると、彼らは輝いた。

『彼らの顔をはずかしめないでください。』

この悩む者が呼ばわったとき、主は聞かれた。

そうして、主はすべての苦しみから彼を救われた。

主の使いは主を恐れる者の回りに陣を張り、

彼らを助け出される。

主のすばらしさを味わい、これを見つめよ。

幸いなことよ。その聖徒たちは。

若い獅子も乏しくなって飢える。

しかし、主を尋ね求める者は、

良いものに何一つ欠けることはない。




主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、

霊の砕かれた者を救われる。

正しい者の悩みは多い。

しかし、主はそのすべてから彼を救い出される。




主はそのしもべのたましいを贖(あがな)い出される。

主に身を避ける者は、だれも罪に定められない」(詩篇34篇新改訳より)と。




 天の神、主、「父である神」と呼ばれる方は、御子である方、イエスの十字架刑での処刑を自分の処刑と受け取る者を処刑済みとして扱って下さり、主に助けを求める者を、このダビデの詩のように扱って下さるのだそうです。




 「父である神」は、永遠の初めから共におられ、この天地宇宙、人間の創造を共になさった方、「御子である神」を、すべての人間の身代わりとし、すべての罪を背負わせて処刑するために、人間イエスとして人の世に派遣されたのだそうです。




 そのイエスが、キリスト(救い主)として立たれる時、「父である神」は、王の前に道を整える者として、まず、バブテスマのヨハネを遣わされ、イエスを神の御子、メシヤ(キリスト、救い主)として世に紹介する者として立てられたのだそうです。




 このバブテスマのヨハネの証言によって、すべての人が、イエスをメシヤ(キリスト、救い主)と認めて受け入れ、イエスの十字架刑での死によって完成する、そむきの罪からの救いを、すべての人が受け取って欲しいと願っておられてのことだそうです。




 この、バブテスマのヨハネの、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」との証言を聞いて、まず、アンデレとヨハネがイエスについて行く者となり、続いて、アンデレの兄弟シモン・ペテロが、そして同じ町の出身のピリポやナタナエル(バルトロマイ)などが加わり、やがてイエスによって弟子の中から12人が使徒として選ばれ、3年半の、イエスのメシヤ(キリスト、救い主)とし活動された時期を寝食を共にしたのだそうです。




 そして、イエスの十字架刑での処刑と、葬り、三日目の復活、そして復活されたイエスと何度も出会い話し合ったこと、40日目、オリーブ山においてイエスが上げられ、雲に迎えられて見えなくなった目撃者としての証言する者となったのですね。




 そして、約束の言葉のとおりに、新しい契約、もう一人の助け主「聖である霊」と呼ばれる方が受け入れる者に来られて、「父である神」が一人一人に対して思っていて下さる御思いを受け入れる者の心に置いてくださり、同じ思いを思うようにしてくださる、その事実の証言が、エルサレムから始まって、ユダヤとサマリヤの全土、そして地の果てにまで、全世界に伝えられ、受け入れる者の生き方を新しくしているのだそうです。

共に主をたたえ、ひとつになって御名をあがめながら。

今日も。


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言葉だけでなく、力強い御業の事実によって

2016-06-22 22:27:51 | 聖書から
あなたは救いの盾を私に授け、

   右の御手で支えてくださる。詩編18:36




 神の国は言葉ではなく

力にあるのです。Ⅰコリント4:20   




      (ローズンゲン日々の聖句6/23;木)




 詩編の作者は謳います。

「神、その道は完全。

主のみことばは純粋。

主はすべて彼に身を避ける者の盾。




まことに、主のほかにだれが神であろうか。

私たちの神を除いて、だれが岩であろうか。

この神こそ、私に力を帯びさせて、私の道を完全にされる。

彼は私の足を雌鹿のようにし、私を高い所に立たせてくださる。

戦いのために私の手を鍛え、

私の腕を青銅の弓をも引けるようにされる」(詩篇18:30~34)と。







 神の国のことは、人の思考の産物、単なる考え方や理論ではなく、力強い御業の現れなのだそうです。




 イエスは、「父である神」の御思いに従って、ガリラヤのカナでの婚礼で、ぶどう酒がなくなってしまったとき、母親の願いを受け入れ、水を最上のぶどう酒に変えて花婿が恥を受けることから救い(ヨハネ2:1~11)、




 ガリラヤのカペナウムの王室の役人の願いを受け入れて、死にかかっていた息子の病気をいやし(ヨハネ4:46~53)、

 エルサレムのベテスダの池の回廊で38年もの間、病で伏せっていた男に「床を取り上げて歩きなさい」と声をかけていやし(ヨハネ52~9)、ガリラヤ湖の向こう岸までついて来た多くの群衆を、そのまま帰らせたら途中で弱ってしまうとかわいそうだからと、少年が持っていた5つのパンと2匹の魚で、男だけで5千人の人々に食べさせ、満腹にさせて帰らせ(ヨハネ6:1~13)、




 道の途中で出会われた生まれつきの盲人を「この人が盲目に生まれついたのは、この人の罪でも、その両親の罪のせいでもなく、神のわざがこの人に現れるためです」とおっしゃられて、その目を見えるようにされ(ヨハネ9:1~7)、多くの病人をいやし、悪霊に捕らわれている者を解放されたのだそうです。




 それで、イエスは、自分を石打ちの刑で殺そうとしている人たちに対して、「もしわたしが、私の父のみわざを行っていないのなら、私を信じないでいなさい。

しかし、もし行っているなら、たといわたしの言うことが信じられなくても、わざを信用しなさい」(ヨハネ10:37~38)と、言葉が信じられないのなら、事実として現れたわざによって信じなさいと言うことができた方なのですね。




神の国、神の御支配は、言葉の上だけのことではなく、力強い御業として、事実として現れるのだそうです。







 過ぎ越しの小羊として(出エジプト12:21~33、51)私たちのお身代りとなって十字架に架かって下さり、復活し、天の父である神の右の座に帰られたイエスが派遣してくださる「聖である霊」と呼ばれる方が来てくださるとき、この方は受け入れる者の心に、「父である神」が一人一人に思っておられる御思いを置いてくださるので、一人一人は、「父である神」が思っておられるとおりの、それぞれ、ちがった働きをし、一人ひとり違っていながら、一つからだを構成する肢体として、調和し、お互いを認め合い、大切にし合い、いたわり合う思いが来るようになるのだそうです。




 もし、一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶようになるのだそうです(Ⅰコリント12:19~26)。

 

古い、「生まれたときからの霊」という私自身からは出て来るはずのない、そのような思いが。

今日も。


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愛し合い、心を一つにする、幸せなものになってほしいのだそうです。私たちにも。

2016-06-22 08:22:08 | 聖書から
今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。
 ただ、あなたの神、主を畏れて
  そのすべての道に従って歩み、
  主を愛し、
  心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、
   あなたが幸いを得ることではないか。申命記10:12

 神の言葉を守るなら、
まことにその人の内には神の愛が実現しています。
これによって、
私たちが神の内にいることが分かります。Ⅰヨハネ2:5

      (ローズンゲン日々の聖句6/22;水)

 天の神、主は、恋い慕ってくださっているようですね。
私たちのことも(申命記10:15)。
愛し合い、心を一つにし、思いを同じにする間柄になりたいと。

 だから、心の包皮を切り捨て、うなじのこわい、自分の理性の善悪の判断を優先させる「生まれた時からの霊」という自分自身をイエスの十字架刑での処刑に合わせていただいて処刑されてしまっているものと認めて(計算して、帳簿につけて)、
三日目に墓より復活し、40日にわたって何度も弟子たちに現れて、ご自身が確かに生きていることを数々の確かな証拠で証明したうえで、弟子たちの見ている前で雲に迎えられ、天の「父である神」の右の座に帰られたイエスが、派遣してくださる「聖である霊」と呼ばれる方、
この方を受け入れ、この方の働きによって、「父である神」と呼ばれる方が私たちひとりひとりに思っていてくださる御思いを、心に書き付けていただき、同じ思い、一つ心になりながら歩む。
その幸いを得る道を歩んでほしいと願っていてくださるのだそうですね。

 「聖である霊」と呼ばれる方の、「父である神」、「御子である神」に対する御愛が受け入れる者に来るとき、私たちにも、この方の天の神、主を愛する心が来て、愛する方と思いを一つにしたい、心を一つにしたい、御思いの中にいたいと願うようになり、お言葉のとおりに、御思いのとおりに生きたいと願うようになるのだそうです。

 これは、願っていくなら、求めていくなら、必ず実現する生き方なのだそうです。
うらみのある者を赦す心にも(マルコ11:20~26)。
今日も。
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ご自身の独り子を身代わりに差し出すほどに、大事に思っていてくださる方なのだそうです。私たちを。

2016-06-21 08:26:02 | 聖書から
あなたは、今日、
 上の天においても下の地においても主こそが神であり、
  ほかに神のいないことをわきまえなさい。申命記4:39

 神は私たち一人一人から遠く離れてはおられません。
「我らは神の中に生き、動き、存在する」のです。使徒17:27~28

      (ローズンゲン日々の聖句6/21;火)

 天の神、主は預言者モーセを通して言われます。
「さあ、あなたより前の過ぎ去った時代に尋ねてみるがよい。
神が地上に人を造られた日からこのかた、天のこの果てからかの果てまでに、これほど偉大なことが起こったであろうか。このようなことが聞かれたであろうか。
あなたのように、火の中から語られる神の声を聞いて、なお生きていた民があっただろうか。
あるいは、あなたがたの神、主が、エジプトにおいてあなたの目の前で、あなたがたのためになさったように、試みと、しるしと、不思議と、戦いと、力強い御手と、伸べられた腕と、恐ろしい力をもって、一つの国民を他の国民の中から取って、あえてご自身のものとされた神があったであろうか。
あなたにこのことが示されたのは、主(「わたしはあるという者)と名乗られる方)だけが神であって、ほかには神がないことを、あなたが知るためであった。
 
 主はあなたを訓練するため、天からの御声を聞かせ、地の上では、大きい火を見させた。その火の中からあなたは、みことばを聞いた。主は、あなたの先祖たちを愛して、その後の子孫を選んでおられたので、主ご自身が大いなる力をもって、あなたをエジプトから連れ出された。

 それはあなたよりも大きく、強い国々を、あなたの前から追い払い、あなたを彼らの地に入らせ、これを相続地としてあなたに与えるためであった。今日のとおりである。

 きょう、私が命じておいた主のおきてと命令とを守りなさい。
あなたも、あなたの後の子孫も、幸せになり、あなたの神、主が永久にあなたに与えようとしておられる地で、あなたが長く生き続けるためである」(申命記4:32~40)と。


 私たち人間を含むこの世界のすべてのものは、この方、天の神、主と呼ばれ、「わたしはあるという者」と名乗られる方の御思いによって創造され、御思いによって支えられ、保たれて存在しているものなのだそうです。


 使徒パウロがアレオパゴスで、アテネの人たちに語ったように、
「神は、一人の人(アダム)からすべての国の人々を造り出して、地の前面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。
これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。
確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられない」(使徒17:26~27)のだそうですから。


 それで、もし、私たちが受け取りさえするなら、イエスが、私たちに代わって十字架刑での処刑を受けてくださり、三日目に墓より復活し、天の「父である神」の右の座に帰られて派遣してくださる「聖である霊」と呼ばれる方。
この方が、受け入れる者の心に、「父である神」の私たちひとりひとりに対する御思いを置いてくださるので、受け入れる者は、互いの罪に対する弱さ、重荷を担い合い、自分の罪を悲しみ、帰ってくる者を、私たちは失敗を責め、なじりたい者ですが、「父である神」の御思いのとおりに赦し合い、受け入れ合って進んでいくのだそうです(Ⅱコリント2:5~11)。
今日も。
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