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朝明けに

聖書のことばから、うれしい一日一日の糧を!

川の流れる良い土地なのだそうです。約束の地は

2015-01-21 22:24:21 | 聖書から
主はあなたを良い土地に導き入れようとしておられ、
 それは平野にも山にも川が流れ、
  泉がわく土地である。申命記8:7



天使は、
神と小羊の玉座から流れ出て、
 水晶のように輝く命の水の川を私に見せた。
  その両岸には命の木があり、毎月実を実らせる。
   その木の葉は諸国の民の病を治す。黙示録22:1〜2

      (ローズンゲン日々の聖句1/22;木)





 エジプトの奴隷生活から脱出して、
40年の間、荒野をさまよったイスラエルの民、
いよいよ、これから約束の地に入ろうとしているとき、
モーセが民に再確認をしているところですね。

 天の神、主がこれから導き入れようとして下さっている地は、
川が流れ、泉がわいて土地を潤すところだと言っています。
エジプトでは、水車を踏んで、ナイル川の水を汲み上げ、
作物を作っていたのでしょうね。

 聖書によると、天の神、主は、
私たちをも、この世から呼び出し、
新しい天地を約束していて下さるのだそうですが、
その新しい都にも、川が流れているのだそうですね。
水晶のように光る命の水の川で、
神と小羊となって十字架刑で屠られて下さった
御子イエスの御座から流れ出て、
都の大通りの中央を流れているのだそうです。

 もはや、呪われるものは何もなく、
神と小羊との御座が都の中にあって、
私たちはこの方々に仕え、
賛美するようにしていただけるのだそうです。

天の神、主は、
これをゴールとして望みながら進んで欲しいのだそうです。
すべての人が。
今日も。








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ひと言、おっしゃってください。そうすれば、

2015-01-20 08:52:37 | 聖書から
主が仰せになると、そのように成り、
 主が命じられると、そのように立つ。詩編33:9





百人隊長はイエスに答えた。
 「主よ、私はあなたを
   自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。
ただ、ひと言おっしゃってください。
 そうすれば、私の僕はいやされます。」マタイ8:8



          (ローズンゲン日々の聖句1/20;火)



 天の神、主と呼ばれる方。
天地万物を言葉を通して創造された方。
この方が、「光があれ」と仰せられると光が出来、
「地が種類にしたがって、生き物を生ぜよ。
家畜や、はうもの、野の獣を、種類にしたがって」と仰せられて、
そのようになったのだそうです(創世記1:1~25)。

 そして、「さあ、人を造ろう。われわれのかたちとして、
われわれに似せて」と仰られて、
私たち人間が存在することになったのだそうですね(創世記1:26)。

 ユダヤに駐屯していたローマ兵の百人隊長も、この方のことを聞き、知っていたのでしょうか。それで、中風でひどく苦しんでいる自分の子のように思っている奴隷に対しても、イエスが一言おっしゃって下されば、そのとおりに成ると。
自分が、百人隊長として、部下の兵士や奴隷に命じれば、兵士や奴隷は言われたとおりに動くように。
 イエスが、「さあ、行きなさい。あなたの信じたとおりになるように」と言われ、百人隊長はその言葉だけを持って、家に帰ったのですが、帰ってみると、その奴隷はいやされていたのだそうです(マタイ8;5~13)。

 イエスが、そう思われ、そう言われると、重症の中風もいやされるのですね。

 私たち、仕事や、勉学、家事・育児、あるいは出かけたりとか、それぞれの歩みをするわけですけれど、天の神、主は、イエスに対してもそうであったように、私たち一人一人を通しても、今日、これをしようと御思いを持っていて下さって(ヨハネ15:12)、その思いを、聖である霊と呼ばれる方によって私たちの心に思わせて下さるのだそうです(エゼキエル36:26~27)。その思いにしたがって、「さあ、行きなさい」と仰って下さっているのでしょうか(ヤコブ4:15)。
私たちが関わる、お一人お一人を祝福するために。
今日も。

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憐れみにより頼んで

2015-01-19 00:04:40 | 聖書から
主よ、憐れんでください。
 私は嘆き悲しんでいます。
主よ、いやしてください。
 私の骨は恐れ、
  私の魂は恐れおののいています。詩篇6:3、4







パウロの手紙:
主は、

「わたしの恵みはあなたに十分である。
 力は弱さの中でこそ、十分に発揮されるのだ」
  と言われました。Ⅱコリント12:9

         (ローズンゲン日々の聖句1/19;月)







 敵が勝ち誇り、圧迫してくる中にあっても、

あるいは、自分自身の罪、弱さ、あるいは失敗などによって恐れおののくときも、

そのように自分が弱い者、ダメなものであればあるほど、頼るのはあの方の憐れみの心なのですね。

あの方の御力は、私たちが弱さのまっただ中にいるとき、発揮されるのだそうですから。

 

そうであるなら、私たちは弱くていい、弱いほどいい。
ダメでいい、ダメなほどいいのですね。


わざわざ、これから弱くなろう、ダメになろうということではなく、
今の自分の弱い実体、ダメな実体のままで
あの方の憐れみを請い求めていっていいということですね。



 パウロは、続けて言っています。
「ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、
むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
ですから、私は、キリストのために、
弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。
なぜなら、私が弱い時にこそ、私は強いからです」と。
 


 「律法の義についてならば非難されるところのない者」(ピリピ3:6)と言い得た、

それほどに努力したパウロだから、

旧い契約の道、自分の力で律法を行って及第点を取る道では、

義とされることがないと断言できたのでしょうね。


 「いや、私は自分の努力で律法を全うできる」と思う人は、

思いっきりやってみればいいのですね。パウロのように。





 天の神、主は、憐れみによって、御子である方を人間イエスとして人の世に送り、

私たち人類の背きの罪の全てをこの方の上に置いて十字架刑で処刑し、

私たちを処刑済みの者とする手続きを完了して下さって、

恵みのプレゼントとして差し出していて下さるのだそうです。



 私たちの生まれたときからの霊は、

イエスの十字架刑での処刑に合わされて処刑された者との手続きを済ませて下さり、

新しい霊、聖である霊と呼ばれる方を私たちのうちに派遣して下さって、

私たちを、この方が私たちの心に書き付けて下さる「思い」によって行動してい行く者にして下さるのだそうです。
 

あの方はそれを「新しい契約」と呼ばれるのですね(エレミヤ31:31~34)。

 
 天の神、主は、私たちが、

憐れみにより、

イエスによって締結されたこの新しい契約の生き方を生きるようにと願っていて下さるのだそうです。
今日も。






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裸で母の胎を出、裸でこの世を去っていくものなのですね。私たち

2015-01-17 23:30:55 | 聖書から
律法はモーセを通して与えられたが、
 恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた。ヨハネ1:17
    (今週の聖句)





私は裸で母の胎を出た。

 裸でそこに帰ろう。ヨブ1:21





私たちは、何も持たずに世に生れ、
 世を去るときは何も持って行くことが出来ないからです。
  食べる物と着る物があれば、
   私たちはそれで満足すべきです。Ⅰテモテ6:7〜8



          (ローズンゲン日々の聖句1/18;日)





 ヨブは、1日のうちに全財産を失い、7人の息子と3人の娘、全部を失ったとき、

このように言ったのだそうです。
 確かに私たちは、裸で、何も持たずにこの世に生まれて来て、何も持たずにこの世を去って行きます。

だから、食べるものと着る物があれば満足する方が幸せなようですね。


 金持ちになりたい心がありますが、金持ちになりたがる人たちは、

誘惑とわなと、人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで有害な多くの欲とに陥ってしまうのだそうです。



 それで、イエスが弟子たちに教えた祈りにも、「日毎の糧をきょうもお与えください」とあるのでしょうか。



 種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしない空の鳥を養っておられる方、

働きもせず、紡ぎもしない野のゆりを育て、美しく装われる方は、

私たちに必要な物をご存じで備えて下さるのだそうですから(マタイ6:25~33)。



 だから、神の国とその義が実現すること、

天の神、主が、今日、私を通してしようと思われることを私がしていくことができるように

聖である霊と呼ばれる方が働いて下さるよう、求めていけばいいのだそうです。
今日も。







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栄光に輝く王が来られるその日に

2015-01-16 23:02:24 | 聖書から
城門よ、頭を上げよ、
 とこしえの門よ、身を起こせ。
  栄光に輝く王が来られる。詩編24:7



主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、
 すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。ルカ12:36


         (ローズンゲン日々の聖句1/17;土)





 エルサレムの東向きの門、黄金門と呼ばれるオリーブ山に面した門は、

今は閉じられたままなのだそうです。
その門が開けられ、王である方がその門から入城なさる日が来るのだそうです。

栄光に輝く王が入って来られるその日が。

けれども、その日がいつなのかは不明なのですね。



 イエス在世の当時、イスラエルでの婚礼は1週間も続けられていたのだそうです。

それで、ぶどう酒がなくなってしまうこともあるのだそうです(ヨハネ2:3)。




そして、婚礼に招かれて行った主人がいつ帰って来るか分からないのですね。

今日なのか明日なのか、1週間後なのか。真夜中なのか、明け方なのか。

主人が帰って来て戸をたたいたとき、すぐ、開けられるように、

待っているのを見られるしもべは幸いだとイエスはおっしゃいます。





 イエスが再臨されて、黄金門からエルサレム入城される前に、

一度、来られることが預言されています。

パウロはこの時の様子を、「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。

それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、

次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、

空中で主と会うのです。

このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります(Ⅰテサロニケ4:16~17)

と記しています。

これは地球上、全世界、同時に起こるのだそうです。

それで、昼間、このことを迎える人がおり、

夜中に迎える人がいるわけですね(マタイ24:40、ルカ17:34)。




 十字架刑で処刑され、墓に葬られ、復活し、天に帰られたイエスが再び来られるその日に、


招きに応じて、ただちに御前に飛び出して行けるようにしておくようにということでしょうか。






 私たち、少しでも自分をきれいにして、信仰深くなってから御前に出ようとするものですが、


そのとき、取り残されないためには、


イエスの十字架の救いに信頼して、ありのままの、自分の実態そのもので


御前に出て行く練習をしておいた方がいいようですね。


今日も。












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