朝明けに

聖書のことばから、うれしい一日一日の糧を!

新しい生き方を生きることが出来るのですね。私たちも

2015-01-27 23:51:17 | 聖書から
主を畏れることは、
悪を憎むこと。箴言8:13

あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、
キリスト・イエスに結ばれて、
神に対して生きているのだと考えなさい。ロマ書6:11

     (ローズンゲン日々の聖句1/28;水)


 悪を憎むこと。
生まれた時からの私という反逆している霊は死ぬしかない者と
認めることも入るのでしょうね。

 新しく生まれる。
罪に対しては死んだもの、
神に対して生きる者と計算していいのだそうです。
手続きは、全部、
あの方のほうで完了して下さっているのだそうですから。

 天の神、主は、私たち人間の一人一人を取り戻すための2段階を計画されたようですね。
 第1段階として、私たち人間が、ご自身と一緒になって善悪を判断していくことをやめ、自分の理性の判断だけで善悪を決定していく者となっている、その背きを処罰すること。
 天の神、主は、このために天地の造られる前からともにおられた御子である方を、人間イエスとして人の世に生まれさせ、この方を私たち人間の身代わりとして立て、十字架刑で処刑することで、私たち、すべての人間の一人一人を処刑が終わった者との手続きを済ませて下さったのだそうです。
それで、イエスは、十字架上でこの手続きが「完了した」と宣言されたのですね(ヨハネ19:30)。
今、私たち人間は、罪に対して、死んでいるものと計算していいのだそうです。

 そのうえで、今度はもう一人の方、聖である霊と呼ばれる方を私たち人間の一人一人の中に派遣して、この聖である霊と呼ばれる方によって私たちの心に、天の神、主の思いを書き付けて下さって、私たちが天の神、主と思いを共有しながら生きる、新しく生きる者として下さるのだそうです。
 これは、天の神、主からの、私たちへの一方的なプレゼントなのだそうです。

 だから、今、私たちは、このプレゼントをもらいさえすれば、神に対して生きている者と計算していいのだそうです。

キリスト・イエスにつく者は、
自分の肉(生まれた時からの私)を、
さまざまな情欲や欲望とともに、
十字架につけてしまったのです。
もし私たちが御霊によって生きるのなら、
御霊に導かれて、進もうではありませんか(ガラテヤ5:24~25)。
今日も。
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自由があるのだそうです。主の御霊がおられるところに

2015-01-27 00:25:00 | 聖書から
私の魂を枷(かせ)から引き出してください。
 あなたの御名に感謝することができますように。詩編142:8







主の霊のおられるところに
 自由があります。Ⅱコリント3:17
...

      (ローズンゲン日々の聖句1/27;火)

 
 心に思ったことに制限がかかると不自由を感じる。
心のままをやっていければ自由を謳歌する。



 あの方との一つを嫌って、自分の理性だけで善悪を決定する者となった、生れたときからの私という霊から来る思いは、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものなのですね(ガラテヤ5:19~21)。


 だから、このような心のままを行っていったら、まさしく、地は暴虐で満ちていくことになるのでしょうね。

ノアの洪水の前の世界のように(創世記6:11)。



 けれども、イエスの十字架刑による処刑に合わせていただいて、処刑済みの手続きを受け取った人に派遣されて来る聖である霊と呼ばれる方から私たちの心に来る思いは、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制(ガラテヤ5:22~23)なのですね。



 思うべき限度を超えて思いあがることなく、神が各々に分け与えて下さった信仰のはかりに応じて、慎み深い考えをし、与えられた恵みのプレゼントに応じて行動していきたい思いなのだそうです。

 悪を憎み、善に親しみ、兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりもまさっている者と思い、勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕え、望みを抱いて喜び、患難に耐え、自分一人の考えでことを決めないで絶えず天の父と相談しながらことを進め、旅人をもてなし、迫害する者を祝福し、喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣き、自分こそ知者だと思うような高ぶった思いを持たず、悪に悪を報いることをせず、全ての人が良いと思うことを図り、自分に関する限り、全ての人と平和でありたいと思う思いなのですね。

 復讐は神の怒りに任せ、敵が飢えたなら、彼に食べさせ、渇いたなら、飲ませ、善をもって悪に勝って行きたいと思う思いなのだそうです(ロマ12:3~21)。





 それで、イエスは、このような御父の思いのままに、自由にやって行かれたわけなのでしょうけれど、聖である霊と呼ばれる方は、私たちの心にも、このような思いを書き付けて下さるのだそうですから、これらの思いのままにやっていくとき、私たちは自由と解放を感じるのでしょうね。



 まさしく、「キリストは、自由を得させるために私たちを解放して下さっているのですね(ガラテヤ5:1)。
今日も。



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