朝明けに

聖書のことばから、うれしい一日一日の糧を!

用いていただけるのですね。ギデオンのように私たちも。今日

2014-11-25 22:10:20 | 聖書から
主よ、もし御目にかないますなら、

 あなたが私にお告げになるのだというしるしを

  見せてください。士師記6:17



イエスはトマスに言われた。

 「わたしを見たから信じたのか。

   見ないで信じる人は、幸いである。」ヨハネ20:29



      (ローズンゲン日々の聖句11/26;水)





 告げられた言葉があなた(天の神、主)から出たものかどうか、が問題のようですね。



強力なミデヤン人の侵入によって国中が荒らされているとき、「あなたのその力で行き、イスラエルをミデヤン人から救え。わたしがあなたを遣わすのではないか。」と言われても、自分の側にはなんの力もなく、ただ、恐れしかなかったギデオンの言葉ですが、語っているのが本当に天の神、主であるのかどうかがギデオンの最も大きな関心事だったのですね。



 その、天の神、主、御子と呼ばれる方、イエスがおっしゃるのですね。十字架に打ち付けられ、体重がかかって、手に大きく開いた釘の穴に指を差し入れてみてでも、また、確かに死んでいることを確認するためにローマ兵が突き刺した脇腹の槍の傷後に触ってみてでも、3日前、みんなの見ている前で確かに十字架に架けられて死に、墓に葬られたわたし、イエスが復活し、今、あなたの目の前に立っているこのわたしだと知りなさいと。



 あの時から2000年が経過した今、私たち、その時のトマスのように目の前に復活されたイエスが立っているわけではありませんが、弟子たちの証言を信頼し、イエスが復活したことを信じる人は幸いだとおっしゃられるのですね。



 復活されたイエスは、40日にわたって何度も弟子たちに現れ、語られ、オリーブ山から、弟子たちの見ている前で天に帰って行かれたのだそうです。



 そして、天の、父と呼ばれる方の右の座に就かれたイエスが、もう一人の助け主、聖である霊と呼ばれる方を私たちのうちに派遣して、この方がいつまでも私たちと一緒にいて下さるようにして下さっているのだそうです。



 この方によって、私たちは「子」の身分を与えていただき、天の神、主と呼ばれる方を、イエスと同じ立場で「父」と呼べるようにして下さり、イエスと同じように父の御思いが心に来て、父と一つ思いを持つ者にしていただき、父がしようと思われることをする者にしていただけるのだそうです。



 ギデオンが用いられたように、私たちにも、御父からどんな思いが来て、どんなことをさせていただけるのでしょう。今日。














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自分の罪の、ありのままの実態を見ていただけるのですね。あのかたに

2014-11-24 23:31:18 | 聖書から
ご覧ください、主よ、この苦しみを。

  胸は裂けんばかり、心は乱れています。

    私は背きに背いたのです。哀歌1:20







徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、

  胸を打ちながら言った。

    「神様、罪びとの私を憐れんでください。」ルカ18:13

 

      (ローズンゲン日々の聖句11/25;火)








 創造主に背き、和解の呼びかけにも応じず背き続け、

ついに懲らしめを受ける結果になったのですね。イスラエルは。

国が亡び、アッシリアの捕囚、バビロン捕囚などに。




 自分の、創造の目的からの的はずれのさまを知って悲しむ者は幸いなのですね(マタイ5:4)。
天の父と呼ばれる方は、自分の背きを知って悲しむ者を憐みをもって迎えて下さるのだそうです。
「罪びとの私を憐れんでください」と訴える徴税人を、天の父と呼ばれる方は、御子イエスが十字架に架かって私たちに代わって処刑されて下さった贖(あがな)いの業によって、御子イエスの義をもって見て下さったのだそうです。




 自分の背きを認めて、天の父と呼ばれる方の前に差し出していく者は幸いなのですね。
憐みを受けることが出来るから。今日も。








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全ての人に受け取って欲しい良い知らせなのだそうです。

2014-11-23 23:30:01 | 聖書から
すべて神の業は永遠に不変であり
  付け加えることも除くことも許されない。コヘレトの言葉3:14





預言者ヨハネの言葉:
天使が空高く飛ぶのを見た。...
この天使は、地上に住む人々、あらゆる国民、種族、
  言葉の違う民、民族に告げ知らせるために、
    永遠の福音を携えて来た。黙示録14:6




      (ローズンゲン日々の聖句11/24;月)





あの方のなさることは、永遠に不変なのですね。
だから、付け加えることも除くこともないのだそうです

あの方が御子である方によってなされた贖(あがな)いの業も、つけ加えることも、除くこともできない永遠に不変の完成した出来事なのですね。

例外は一人もいない、すべての一人一人のために完了した救いの手続き。
すべての人々、あらゆる国民、あらゆる種族、すべての言葉の違う民、言葉の違う民族に告げ知らされる喜ばしいニュースなのですね。



 一人ももれなく伝えられ、一人ももれなく、この救いを受けとって、家族になって欲しいのだそうです。あの方。今日も。



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一度は死んだが、世々限りなく生きておられ、また来られる方

2014-11-22 23:04:14 | 聖書から
腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。ルカ12:35(今週の聖句) 




主なる神よ、

まことにあなたは大いなる方、

あなたに比べられるものはなく、

あなた以外に神があるとは耳にしたこともありません。サムエル記下7:22





恐れるな。

わたしは最初の者にして最後の者、また生きている者である。

一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きている。黙示録1:17〜18



    (ローズンゲン日々の聖句11/23;日)



...


 神ご自身が人間の世に来られて、ご自分の命を買い戻しの代金として支払って、私たちを買い戻して下さったというのですね。このような神がどこにいるのでしょう。耳にしたこともないですよね。



 御子である神と呼ばれる方は、私たち人間の背きの罪を一身に背負い、十字架刑で公開処刑されたのですね。神に呪われた者として、天と地の間に高く掲げられ、ローマ兵が槍で突き刺して確かに死んだことが確認されたのだそうです。けれども、3日目の、日曜日の早朝、復活し、40日にわたって、何度も弟子たちに現れて確かに生きていることを、証明し、オリーブ山から、弟子たちの見ている前で、天に帰って行かれたのですね。



 天地の造られる前から、永遠の初めからおられた方。世々限りなく生きておられる方。そして、また来られる方。



 この方が帰って来られたとき、思いがけないことが起こったかのようにあわてることがないようにと言われるのですね。

主人の心を知りながら、その思いどおりに用意もせず、働きもしなかったしもべのようにではなく、聖である霊と呼ばれる方によって、私たちの心に来る、父である神と呼ばれる方の御思いについて行っているのを見てもらえる者は幸いだと言われています。今日も。




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憐れんでくださいと叫び続けたのだそうです。あの二人の盲人は

2014-11-21 23:27:27 | 聖書から

主よ、あなたを呼び求めます。
  私の岩よ、私に対して沈黙しないでください。詩編28:1





二人の盲人がイエスがお通りと聞いて叫んだ。
  「主よ、ダビデの子よ、私たちを憐れんでください。」...


群集は叱りつけて黙らせようとしたが、
  二人はますます叫んだ。マタイ20:30~31




      (ローズンゲン日々の聖句11/22;土)





 あの方が沈黙して、答えて下さらないかのように思える時も、自分の側には答えていただく資格など全くないことを自覚し、あの方の憐れみだけに依りすがっていく者は叫び続けることができるのですね。自分の側には、信仰もなく、熱心さも、正しさ、清さもない者は。


 あの方は、そのような者をかわしそうに思って答えて下さるのだそうです。

この二人の盲人も、イエスから「わたしになにをしてほしいのか」と尋ねられ、そくざに「主よ。この目をあけていただきたいのです」と答え、目が見えるようにしていただき、イエスについていく者になったのだそうです。


 イエスが御在世の時はイエスについて行けたのですが、イエスが十字架に架けられて死なれ、葬られ、3日目に墓より復活し、天に帰られた今は、イエスに代わって派遣されているもう一人の方、聖である霊と呼ばれる方について行くのだそうです。

この方が、私たちの心に置いて下さる天の父と呼ばれる方の御思いについて行けばいいのだそうです。


 イエスの十字架に合わせられて、生まれたときからの霊という私が十字架につけられ、処刑された者は、聖である霊とか御霊とか呼ばれる方をお迎えし、この方が置いて下さる思いに導かれて進めばいいのだそうです(ガラテヤ5:24~25)。
今日も。






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