春のクラシックには乗れず、秋もセントライト記念8着だったが、その後急速に成長してきた。
翌年の金杯、目黒記念(当時は2月開催)で、1着、2着として、春の天皇賞には惑星馬として大きく浮上してきたのだが、骨折で1年間の休養。
オイラも大いに注目していたところだったので、がっかりした。
で、一年後の中山記念に出てきた。
オイラはもちろん注目はしていたが、休み明けということで無印。
しかしながら、当時の予想でローレルについて、こう書いていた。
「ここで勝つようなら、只者ではない」
そうです。
「只者」ではありませんでした(笑)。
まさに横綱相撲で、快勝!
満を持して「天皇賞・春」に出走してきました。
ところがです。
こともあろうにオイラは、またしても無印に・・・。
前哨戦の阪神大賞典の「トップガン、ブライアン」の接戦に中てられてしまっていました。
レースはまさに、そんなオイラを嘲笑うかのように、その両頭を直線でまとめて差し切りましたね。
いや~強かったです。
残念ながら、海外での活躍は、怪我のため叶いませんでしたが、安定した強さは、この時代の代表馬と呼ぶに相応しいでしょう。
翌年の金杯、目黒記念(当時は2月開催)で、1着、2着として、春の天皇賞には惑星馬として大きく浮上してきたのだが、骨折で1年間の休養。
オイラも大いに注目していたところだったので、がっかりした。
で、一年後の中山記念に出てきた。
オイラはもちろん注目はしていたが、休み明けということで無印。
しかしながら、当時の予想でローレルについて、こう書いていた。
「ここで勝つようなら、只者ではない」
そうです。
「只者」ではありませんでした(笑)。
まさに横綱相撲で、快勝!
満を持して「天皇賞・春」に出走してきました。
ところがです。
こともあろうにオイラは、またしても無印に・・・。
前哨戦の阪神大賞典の「トップガン、ブライアン」の接戦に中てられてしまっていました。
レースはまさに、そんなオイラを嘲笑うかのように、その両頭を直線でまとめて差し切りましたね。
いや~強かったです。
残念ながら、海外での活躍は、怪我のため叶いませんでしたが、安定した強さは、この時代の代表馬と呼ぶに相応しいでしょう。