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“日本人に歴史を知らせることが私の使命”-丹波マンガン記念館’

2010年07月01日 | 韓日関係関連消息
“日本人に歴史を知らせることが私の使命”

‘丹波マンガン記念館’再開館を推進中

2010年06月30日(水)京都=金致寛記者ckkim@tongilnews.com

         写真ー当時ハンバ(労働者宿舎)内部の様子.

28日午前、京都市郊外の'マンガン炭鉱記念館'を訪ねイ・ヨンシク館長に会った。

京都市内を抜け出し山道をしばらく走ると‘丹波マンガン記念館’という標識に出会う。 しかしその標識は壊れて倒れ、記念館から観覧者の足が途絶えたことを雄弁に物語ってくれていた。

奥深い山中に位置する‘丹波マンガン記念館’は、 日帝時代強制連行に遭った朝鮮人らが軍需物資生産に必須のマンガン採掘のために苛酷な労働を強いられ塵肺症で命を落としていった現場であり、今は故人になったイ・ジョンホ先生とその遺志を受け継いで記念館を運営してきた息子ヨンシク(50)氏の魂が込められている所だ。

28日午前、記念館を訪問した記者に差し出されたイ・ヨンシク館長の手は、10年間の炭鉱労働で鍛えられたタコでごつごつしていた。 堂々とした体格に釜蓋のような手を持った彼が、最近韓国にも翻訳紹介された『在日朝鮮人アリラン』を書いた著者という事実が信じられなかった。

日本人ジャーナリスト田中宇が『マンガン パラダイス』という本を通じて、1930年代に朝鮮人らが‘異郷での金儲け’のために日本の丹波地方マンガン炭鉱に自発的に駆せ参じたと記録した内容を反論するために、10年の歳月をかけて韓国へも直接取材するなど刻苦の努力の末‘強制連行’の歴史を明らかにした知的探求力の備わった作家という印象と合致しなかったためであろう。


彼の案内で見た800mほどの炭鉱坑道内の展示場は、何の説明も必要としない‘生きた歴史教育の現場’がどんなものなのかを痛感させた。

水が流れ落盤事故の危険が今なお残る狭苦しい坑道内で、這いつくばるように採掘と運搬の重労働を強いられている強制連行朝鮮人らのマネキン模型は、見る人に戦慄を呼び起こした。 それすらも観覧のために、坑道の幅と高さをはるかに広げたというのだ。

1986年頃イ・ヨンシク館長のお父さんイ・ジョンホ先生は、“日本が犯した罪の歴史を私たちが残さなければならない”と、“10万円の現金もない”状況から博物館建設を提起した。イ館長は、“初めは賛成できなかった”が、結局父は3年目の1989年に記念館を建設したと回顧した。


彼は解説を聞いても“そんなはずがない”という日本人たちを相手に、彼らの暗い侵略の歴史を教えた。しかし、開館20年目の昨年(2009年) 5月‘7300日’の記録を残して、財政難で閉館しなければならなかった。

最近記念館閉館を惜しむ人たちが再開館を推進、記者が訪問する一日前の27日‘マンガン炭鉱記念館再建委員会’が発足し、来年4月再開館を目標に9月から改善補修を始めることにしたという。その為に当面の目標として850万円を募金することに決めたそうだ。

イ・ヨンシク館長は“日本が加害者としての歴史を認めてこそ、在日同胞らに対する差別がなくなり東南アジアの平和にもつながる”と話した。

彼は“私がするといってやり遂げられなかったことはない”と言いながら、“日本人ひとりひとりにこの歴史を知らせることが私の使命”と決意を新たにしていた。

取材を終えて記念館を出た記者は、遠い異国の地でわが民族の受難の歴史を通じて東北アジアの平和を説破する彼の広い肩を抱きながら、この時代の‘信念の強者’に会った喜びと感動に浸った。

★ぼくも記者に同行して、取材の一部始終を目の当たりにした。
記者は来日前、「在日朝鮮人のアリラン」韓国語版の書評を書いて来たと言う。この取材には相当な思い入れが感じられた。取材を終えての帰り際に記者は、自分からイヨンシク館長に抱きつき、別れを惜しむようにその場を離れた。
記者金致寛氏は統一ニュースの編集局長。1982年延世大学校に入学、学生運動に参画した経験をもつ。今回6.2地方選挙で江原道知事に当選した方は一年後輩、その他政界、言論界、財界にも知人は多いという。そのような「成功者」の中にいて、今も学生運動をしていた心意気で平和、統一、民主に取り組んでいる。何よりも真面目さを絵に描いたような人物。6.15を否定する現政権の下でも北のわが民族、海外同胞を愛情のこもった眼差しで取材する彼の姿勢に共感を覚えた。namsang