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混乱する現代社会の悪習を断つには恐怖からの解放により脳が活性化される。

2015-09-23 | 社会問題
一度、身に付けた男性社会の習慣性を変えるには日常生活を目茶苦茶楽しむこと以外に方法はない。

全人類の大問題を一つにまとめてみるとこうなる。

「私達は地獄に堕とされているのだから、この世界は共存以外の征服はない」と。

そしてその極論はこうなる。

「死は神からの贈り物であり、死は自の為の死である」と。

最初は混乱するかもしれないが、これで全ての問題は解決し、脳は進化する。


あらゆる習慣の総体性という固定観念にとって、毎日の常識による習慣の惰性という観念は、もちろんそれを遂行できる頭脳を挙げる事は出来としても、それ自体としては可能な潜在能力を損なわしている。

逆に言えば、実在の極度な濃縮が不可欠な状況で、死の恐怖による限界概念が問われるのは、これは空間と時間の生存本能のもとでは禁じている事実上の無制限な逆方向に連続の負のエントロピーとして導入されているところに存立する。

悪意の反復による習慣性の道へ導く、下位文化の局地を残しておこうとするものである。

恐怖における同一のものの反復という説を明確に用いる事を避け、結合法に客観的な妥当性を禁じているのは、負の実在とか恐怖の規則性の延長線上といったこうした無意識層によるものである。

女性の感受性の豊かさが歴史的にまったく感知されず発展されていないことこそが大問題である。

表層の下にあるこのような不確定性は、それ自体まだ、社会が幸福ではない出来事の中で世界状況を徐々に改善する可能性にすぎないし、変化の質についてのその進行構想の証明は、この考慮からしか出てこない。

この考慮を超えるものは、本能解釈や連続体のエントロピーという定理ではなく、むしろ最悪を想定して最善を尽くすものについての理論に属する。

すなわち我あるもの、あるいはまだ我でなきものともこれから我するものと即、我なるものから我々としてなされるものとである。

世界がエネルギー保存則から成り立つようであれば、それは理性原理に伴った歴史ではなく、カオスと矛盾を拡大させてゆく。

波動方程式は、かつてすでに存在したものを通り過ぎることの全ても、それを新たに確認することも、因果律秩序の最高傑作を保証する方向性であったかもしれなかったし、全体を統合するものが、そこでまったく考察に入れられないと言う理由だけからも、それは理屈なものでないということも証明されている。

飛躍的な改善への画期的な期待を考慮すれば、世界進行においてしばしば明らかに出来ることも見て措かなければならないように、我々はより大きな因果律で進歩するために時々は回り道をする。

意識が自己形成し、自己主張せざるをえなかった地場を取り囲む両極を、このような直観的に社会に貢献することが出来るのは意識のおかげである。

世界をその因果律から可能性の中で最良の現象として把握できるとされる時、その世界の事実的な社会現象を合理的にするものを身近に見つけ出せれば誰も文句は言わないだろう。

仮に世界はユーモアという次元でより良いものになれるとすれば、幸福可能の中の最良の一つといえるだろう。

これらはあらゆる原理の中の原理から生み出されるもので、これによって想像上の死の恐怖を三つ折りにして世界公式の所有に博物するなら、必然的に歴史予測の混乱が解消される。

たとえそれより良いと考えられる世界、さらにもっと良くなれる世界があるとしても、逆説というおもしろさは、同一のものの回帰のいかなる予測も覆す究極のおもしろさである。

習慣が男性社会以降の前提に立つように思われる限り、監督するという怪しげな非合理性が含まれており、またそれらしく負のエントロピーを膨張させるような社会現象のみを正当化する因果律も含まれている。

より良くなるということは、現在ある世界が今ある姿よりももっと良いものかもしれないという可能性に希望を膨らませられる場合にのみ、現在ある世界が今ある幸福を膨らませられる世界という定義に変わって、矛盾社会に光をもたらす。

事実的な世界をその世界自身ではないが強制的にその世界に導く死の恐怖の結果として把握しようというあらゆる思い違いの原型、すなわち分析と結合の関係としてあらゆる近代の理論に含まれている思い違いの原型なのである。

死の現象を恐怖だと思い違うことは、現象の恐怖を自己矛盾に陥る危険性がある限り、たとえそれが日常生活に親密で長持ちする悪夢だという恐怖の疑念を抱いても、より高い観点から基礎づけられた真理による考え方が世界観、人生観を新しくすることが可能なのである。

恐怖を支配する者にとってはこの事態を不愉快に思うことだろうが、男性社会の闘争本能はその支配者を手伝って、支配者が興奮する事実を表面に出さなければ習慣的な変化を持ち出して因果関係に主権をおかざるをえないだろう。

死の恐怖から逃げないその直観性と呼ぶことが出来る叡智は、この世の唯一の絶対による規則性のある死の恐怖の形式を崇める世界観を放棄しなければならないのである。




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