さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

草森紳一『歳三の写真』

2017年01月16日 | 和歌
以下は、「美志」の復刊一号(2011年1月)にのせたもの。

草森紳一の『随筆 本が崩れる』(文春新書)という書物は無類におもしろい。私は愛書家もしくは蔵書家の苦労話を読むのが結構好きだ。本とどう暮らしているか、ということに、その人の仕事や性格の質があらわれているからである。今の時代は、読書家のブログをチェックしたら相当におもしろい文章が見られる。

 でも、私の見るところネット上の書き手の姿勢は、概して親切すぎ、サービス精神が旺盛にすぎる。それが、私などにはかえってめんどうに感じられる。草森紳一の文章がいいのは、妙に親切そうな口ぶりをしない点だ。草森は、自分の生活のどうにもならない成り行きを、どこまでも我が儘に描きだしている。誰が何と言おうと、自分はこのやり方で貫くほかはないという意地の張り方。その滑稽さを、書き手はよくよく自覚しながら文章をつづっている。

 床に積んだ本の塔が倒れて風呂場の中に閉じ込められ、どうやったら脱出できるかをあれこれ思案して、まあいい、一風呂浴びてから考えよう、と思って取りあえず風呂につかることにする、というくだりなど本当にばかばかしいのだが、延々と私事をのべていく文章が、一種のリズムを持っていて、駄目なことが一種の芸になっている。

 続いて筆者は何となく秋田に旅行することになり、平田篤胤の墓に詣でるのであるが、その五百何十段あるという石段を上るのに、こちらも読みながらいっしょに息をきらす。本がいっぱいつまった荷物を置く場所を教えてくれる店の人の親切がうれしく、階段のぼりの途中耳に入るウグイスの声がうれしく、老躯に鞭打って上がり終えてからする仮眠が、訳もなくうれしい。要するに、スタイルがあるから読ませることができるのである。

 その草森の『歳三の写真』(昭和五三年刊・新人物往来社刊)という本を先日手に入れた。七百円也。インクの文字も薄くなっていて、あまり状態のいい本ではないが、私のように買う者がいそうなタイトルではある。巻末に「歳三の写真」ノートという文章がある。新選組の土方歳三には、『豊玉発句集』という句集があり、それについてこう書いてある。

「 春ははるきのふの雪も今日は解
               土方歳三

 ばかばかしいような句だが、ほかほかしてよい。(略)
この世の物ごとは、ありがたいことにすべて曖昧であり、その人の見たいように見えてくるところがある。死の意識といったところで、すべて人間は死ぬのであってみれば、なにも特殊なことではなく、意識などというものは、なによりも予定調和の活動でしかない。時代が時代であって見れば、死を意識することなどは、なんの不思議もでもない。清川八郎の率いる浪士隊にくわわって京に向かうということは、当然、死の覚悟でのひとつ位はあるのだから、句の中にその意識が見え隠れていても、驚くにたらない。

  手のひらを硯にやせん春の山

 見ようによっては、どのようにも見えてくる句である。これも、ほかほかした句である。心に余裕のない時には、生れない情動であるが、歳三の句は、総じて素朴なまでにこの余裕がある。」

 土方の句について、「ほかほかしてよい」という言葉が出る。とても敵わないなと思えるようなこういう文章を見つけるのが、私は好きである。


子母澤寛の『新撰組始末記』の伊東甲子太郎の歌

2017年01月16日 | 和歌
 坂本龍馬の書簡が発見されたというニュースがあって、自分の書いたものの中に多少幕末の関係の事を書いたものがあるのを思い出した。もとは「美志」復刊二号(2011年9月)。

 伊東甲子太郎の歌について

 古書店の百円棚は楽しい。最近の収穫は、子母澤寛の『新撰組始末記』で、これはよくある文庫本ではなく、元治元年の京都の古地図を表紙に用いた昭和四十二年中央公論社刊本である。その巻末に半井梧菴(なからいごあん)選の伊東甲子太郎歌集『残し置く言の葉草』の二百首が収載されている。文庫本にこの歌集があったかどうか記憶は定かでないが、たいてい文庫などの普及版では、和歌は省略されてしまう。だから、古書になっている最初の単行本はばかにならない。この本は、中学校の頃に文庫で買ったけれども読めなかった覚えがある。伊東甲子太郎は、京の木津屋橋で三十二歳で暗殺された。その人の歌。

  行末はかくこそならめわれもまた湊川原のこけの石ふみ   湊川楠公之碑前にて

 いたってわかりやすい、いつ死んでもいいという気構えにあふれた幕末の志士の歌だが、前回話題にした土方歳三同様、詠み口に気持ちの余裕が感じられる。しかし、新撰組内の紛々たる派閥抗争には、相当に疲れたのではないだろうか。伊東の和歌の大半は、右のような素朴なものだが、それにまじって、紛乱に伴う鬱屈を述べたものが散見する。

  うきことのかぎりを積みて渡るかな思は深き淀の川舟 (濁点引用者)

 詞書によると、これは気持を同じくする知人らと会合してから別れる際に作ったものである。密談だったに違いない。一首は、舟の出るのを待つ間に低声に吟じたものではないかと思う。目の前には川が流れ、友と別れるのに際して古代中国の故事が頭をよぎったかもしれない。先に引いた歌同様に平易な歌だが、「うきことのかぎり」には、実感に根差した重たいものがあり、調べも緊張したものが感じ取れる。
 本来「うきこと」は、恋の思いにまつわるものだった。この歌も状況とただならぬ詞書を外してしまえば、そう読むことは不可能ではない。恋の歌のかたちが、そのままで政治的な憂憤を漏らすためのてだてとなって転用されるような時代を、伊東甲子太郎らは生きていた。この時、和歌の内実は、実用のレベルで変質していたのである。



『前川佐重郎歌集』を読む 2

2017年01月14日 | 現代短歌 文学 文化
つづく「残響」の一連をみる。

八月の半ばにありて錆びゆけど下肢にまとへるわが影の刃は

 「刃」に「は」と振り仮名。佐重郎の歌には「刃」という言葉が頻出する。影はふつうはむしろ輪郭の曖昧なものだが、強烈な光が射す盛夏はくっきりとした輪郭を持つ。しかし、それをあえて「刃」のような影、と言うときに、「私」が抱えている危機そのものがぐっと迫り出してくる。「下肢」は「かし」と読んで下半身の事。男の下半身、というと生活の土台を支えるものであるとともに、性的な欲求の在処というニュアンスも多少暗示される。続く歌。

蒼穹に溺れひさしき手足あり摑まむかいま男坂に立ち

 「蒼穹」には「あをぞら」と振り仮名。男坂は、都内の実在の地名だが、そちらの意味かどうか。人生の男坂、辛い方の登山道、という含みをどうしても感じさせる。これまでは青春の夢におぼれていたが、これからは何か確固とした手がかりのようなものを摑んで生きていかないといけない、という決意の歌。

白粥にはる薄膜の韻きこゆ八月半ば置き去りし耳

「白粥」に「しらかゆ」、「韻」に「おと」と振り仮名。「白粥にはる薄膜の韻」とは、何だろう。厨で粥をたいている音か。その音の記憶を置いてきた、置いたまま出てきてしまった、ととる。この「耳」の背後には、岡井隆の有名な歌「つややかに思想に向きて開ききるまだおさなくて燃え易き耳」(『土地よ、痛みを負え』)の「耳」の残響があるかもしれない。「耳」は思想的な言葉を感受する若者の感性の比喩として人口に膾炙したものだ。

冷ゆるまで直立せむか諸々の思ひあつめし独りの驟雨

 この歌の結句「独りの驟雨」というような叙法は、一時期非常に流行してからすたれてしまったものだ。「直立」と言ったらただちに思い浮かぶのは佐佐木幸綱の有名な歌集のタイトル『直立せよ、一行の詩』であるが、「直立」という語の示す力のベクトルは真逆である。幸綱の「直立せよ」には、若者の内側に眠っている激情を呼び覚まして行動に駆り立てるようなところがあった。詩と行為とがともに手を携えて世界の正面に突進してゆくような、青春の息吹が感じられた。そういう連想を沈めたところで、逆にたった一人で立ちすくむ孤独な「私」がここにはいる。一首だけ取り出した時にはさしたる歌ではないのだけれども、この一連の中では重たい意味を担つている。

短夜を昭和へ一語抛りゆく言葉の塔の赤き朝焼け

「短夜」に「みじかよ」、「抛」りに、「ほう」り、と振り仮名。ここで問題になっているのは、観念だ。「言葉の塔」は、ヘーゲル哲学とか、マルクス主義といった思想体系のようなものを暗示する。

没りし陽を浴びつつおもふこの帰路のかつて土砂降り銀の夕立

「没」り、に「い」りと振り仮名。「帰路」という言葉は、解釈のうえではひとつのキーワードとなるだろう。出発の時は銀の夕立に降られていた青春時代から、歳月を経て、「私」は夏の赤い夕陽を浴びながら帰路をたどっている。この「私」は作者自身であるとともに、戦後日本というものの全体的な暗喩ととらえてもいいだろう。「帰路」は「昭和」へ一語、「あばよ」とか何とか投げつけて戻って来た「私」の帰還のイメージと結びついている。続けて五首を引く。

六十年代の露しとどにぞわが額に垂れ落つ夜半の鏡面羞し
 ※「額」に「ぬか」、「羞」に「やさ」。

やはらかき光を浴みて棘あはき鎧を解きし夏のひひらぎ
 ※「鎧」に「よろひ」。

一束の緋に率かれゆく生類のかのまぼろしをいまだ負ひにき
 ※「緋」に「ひ」、「率」に「ひ」。

木を過ぐる秋蝉のこゑ繊くありしばしも熱き遁れゆくもの
 ※「繊」に「ほそ」。

ひるがへる朴の大葉にゆだねつつ空に浮かべる蝉殻ひとつ
 ※「朴」に「ほほ」、「蝉殻」に「せみがら」。なお、「蝉」は旧字。

 ここまで読んでくると、やはりこの一連が時代というものを背景にうたわれていることがわかる。「鎧」を解くというのは、端的に言って戦後に拡大した革命思想を捨てたことを意味している。これは戦時中の「転向」とはちがう。転向というのは権力の強制によって発生するものだが、これは自ら状況の変化を認識しながら全体的な革命的思潮の衰退を確認し、自身の思想的な敗北と挫折の意味を内面的に受け止めているのである。

やはらかき光を浴みて棘あはき鎧を解きし夏のひひらぎ

 こういう歌をみると、昨年道浦母都子の『無援の抒情』が再刊されたが、戦後の左翼的な変革の思想に憑かれた人々がひとりひとりどのように、その経験を咀嚼していったのか、ということが思われるのである。いま思い出したが、昨年は「桜狩」の早野英彦さんと、「未来」の武井一雄さんが亡くなった。二人とも自らが思想的に負った課題を背負って愚直に誠実に短歌に取り組んでいた歌人であった。前川佐重郎さんの歌を読むうちに、期せずしてこの二人の世間的には無名だった歌人の存在を思い起こし、ここに花を手向けておきたいと思う。

ひるがへる朴の大葉にゆだねつつ空に浮かべる蝉殻ひとつ

 ああ、この歌は二人への、また同様な六十年代の祝祭の青春を生きた人々への、また無数の戦後の思想的な死者たちへの挽歌としていま読み直すことができるのではないか。

虫武一俊『羽虫群』

2017年01月13日 | 現代短歌
虫武一俊の『羽虫群』という歌集のタイトルを見たときに、何だかずいぶん「虫」にこだわったな、という印象を持った。「虫」というのは、たぶん定職につけないとか、人に認められないといった社会的な負の評価に関する自意識の投影されたイメージなので、そこをあえて自分自身へのレッテルとして引き受けてみせようという心理機制が見える。

「負けたくはないやろ」と言うひとばかりいて負けたさをうまく言えない
防ぎようのなく垂れてくる鼻水のこういうふうに来る金はない

 一首めの関西弁は、日本の企業社会が持っている暗黙の強制力のいやったらしさを拒否する者の言葉だ。こういう歌はよくわかる。
 
 私がおもしろいと思うのは、次のような異物感を自ら押し出すような感じの歌だ。

マネキンの首から上を棒につけ田んぼに挿している老母たち
抱き寄せる妄想にだけあらわれる裏路地はありどこへ繋がる

 すいぶん薄暗いイメージだけれども、この人にはユーモアの感覚があって、陰惨になりそうな景色が、どこか諧謔味を帯びた軽さを持っているために、救いがある。それが、穴に落ちた自分の髪を自分の手で引っ張り上げるというような自助自救のアクロバットを可能にしているのだろう。

作業服は枯れたくさいろ 左胸ポケットに挿さるペンのぎんいろ
剣豪のように両手にハンガーを構えてしまうひとときがある

 こうして「くさいろ」と「ぎんいろ」をぱっと言葉でつかんだ時の軽さと明るさ。その感性のビビッドなところ。「剣豪のように」というポーズの楽しさ。

それなりに所有をしたいおれの眼に九月の青空はうすく乗る
 
この「おれの眼に九月の青空はうすく乗る」という句法は、なかなか高度なわざで、こういう日本語のよじり方をできる人のことを、わざわざ私が心配する必要もないわけなのだ。

堤防を望遠レンズ持ったまま駆けていくひと 間にあうといい

こういう歌をみると、作者はけっこういい人なのかもしれないな、と思えたりするのも歌の効用だろうか。

 

香川景樹「桂園一枝講義」口訳 26~32

2017年01月12日 | 桂園一枝講義口訳
26  
伊勢の海のちひろたくなは永き日もくれてぞかへるあまのつり舟
七六 伊勢の海の千尋(ちひろ)たぐなはながき日も暮てぞかへる蜑(あま)の釣舟
□「たく縄」、たくの木の皮でしたる縄なり。濡れると切れぬものなり。たぐる縄とするはあし。「たく」、「古事記」にあり。「いせの海」いふにもきれいなり。「長き日」の序詞なり。「永き日もくれてぞかへる」といふが此歌の旨なり。海人のしわざのひまなき事をいふなり。此の永き日に暮て帰るとなり。もと此歌は、「伊勢の海」といふ題にてよみしなれども「題知らず」に入れたり。
○たく縄は、たく(楮)の木の皮でした縄だ。濡れると切れないものだ。たぐる縄と解するのは良くない。「たく」は「古事記」にある。「いせの海」は言うにもきれいである。長き日の序詞だ。「永き日もくれてぞかへる」と言うところがこの歌の趣旨である。海人(あま)の仕業の忙しい事を言うのである。この永き日に暮れ(まで働い)て帰るというのである。もともとこの歌は「伊勢の海」という題で詠んだものであるけれども、「題知らず」に入れた。

27 帰雁
はるはるとかすめる空をうちむれてきのふもけふもかへる雁金
◇はるばると霞める空をうちむれてきのふもけふも帰るかり金(がね) 文化四年
□此通也。調をゆたかにして春景ののどやかなるをいふなり。昨日もかりのこゑがした、けふも行くわい、と也。一むれ々々追々とかへるとなり。「昨日もけふもかへる雁かね」古歌にありしと見ゆれども此方がよきなり。
○この通りである。調べをゆたかにして春景ののどやかなようすを言うのだ。昨日も雁の声がした。今日も行くわいというのである。一群れ一群れあとを追って帰るというのである。「昨日も今日もかへる雁がね」古歌にあったと見えるけれども、こっちの方がよい歌である。
※「昨日もかりのこゑかした けふも行くわい」などは、口語の「た」の国語資料として好例だろう。
※※一、二句めで春の空をすんなりとさわやかに言いなしておいて、下句はいかにも実景を彷彿とさせるところが魅力的。「昨日もけふも」は古歌では山辺赤人など。結句に「かへるかりがね」と据える歌はそれこそ何百首とあってこの歌はその中に埋没しているとも言えるのだが、実景の味を持つところが「此方かよきなり」という作者の自信あふれる言葉となっているのだろう。

28  
花をこそ待わたりつれ雁かねのかへる空にもなりにけるかな
七八 花を社(こそ)まちわたりつれかりがねのかへる空にもなりにけるかな
□花のさくをのみこそ待渡りて居るのに、待つ花はまだ咲ずして帰雁のころにもなりにけるかな、と也。時節打合ひたるなり。雁の別の事には待つ心もなかりしに、此別のおもしろからぬ事は待たざりし、となり。「花をこそまちわたりつれ」といへば花一つをぬき出だしていふなり。「花をぞまちわたりける」といへば一つを抜くには抜くなれども、さしやうの工合がちがふなり。たとへば人が列座してゐる中にて誰が何を知つて居るといふにぞ、といへばそのまゝに置きて指すなり。「こそ」といへば一つ其物を引抜きてきびしく指すなり。
○花が咲くことだけをずっと待って居たのに、待つ花はまだ咲かないでいて帰雁の季節にもなってしまったことだなあというのである。時節が打ち合っているのである。雁の別れの事には待つ心もなかったのに、この別れのおもしろくない事は待っていなかったよ、というのである。「花をこそまちわたりつれ」と言えば、花一つだけをぬき出して言うのである。「花をぞまちわたりける」と言えば(花)一つを抜くには抜くのだけれども、指しようの工合が違うのである。たとえば人が列座している中で誰が何(者かということ)を知って居ると言う時に、「ぞ」といえば(他の者は)そのままにして置いて指すのである。「こそ」と言えば一つそのものを引き抜いてきびしく指すのだ。
□「成にけるかな」、「思ひけるかな」、俗に「かへるてにをは」といふ也。六七分は返るなれども、それに限ることではなきなり。
此歌は「成りにけるかな」というても返りはせぬなり。又「君が代に逢阪(ママ)山の石清水木がくれたりと思ひけるかな」。「木がくれはせぬものを」と返るなり。然るに返るは〈変〉なり。返らぬは〈常〉なり。「君が為惜からざりし命さへ」、これなどは返らぬなり。
○「成にけるかな」「思ひけるかな」、(これは)俗に「返るてにをは」と言うものだ。六、七分は返るものであるけれども、それに限ったことではない。
この歌は「成りにけるかな」と言っても返りはしないのである。又(ついでに言うと)「君が代に逢阪(ママ)山の石清水木かくれたりと思ひけるかな」(という歌の)「木がくれはせぬものを」と返るのである。けれども、返るのは(どちらかと言うと)変(則的なもの)だ。返らないのは常のことだ。「君が為惜からざりし命さへ」この歌などは返らないのである。
※「君が代にあふさかやまのいはし水木がくれたりと思ひけるかな」は、「古今集」「古今和歌六帖」(山)所収歌。ここで「返る」と言うのは、反語的なとらえ返しのことである。「君がため惜しからざりし命さへ長くもがなと思ひけるかな」は、むろん「後拾遺集」「百人一首」の藤原義孝の有名な一首。

29
草まくら旅をつねなるかりすらもかへる空にはねをそなきける
七九 草枕たびを常なるかりすらも帰る空には音をぞ啼(なき)ける
□「草枕」旅の枕詞なり。大体枕詞は知れぬが多き也。「足曳の」「たらちねの」「久かたの」など子細ありて知れぬなり。今は「草枕」といふ事はしられであるやうなる故に枕でなきやうなり。それ故に木枕、岩枕、波枕などと一緒に思ふなり。されども其方の類に入るゝは第二義也。元来は「草枕」は旅の枕詞也。此「雁がね」が草枕をすることはなきなり。旅といはんが為也。旅といふことは一夜でもよそへ行きたらば旅なり。たびといふ事は「たびと(三字傍線)」と云ことなり。「たびとあはれ」とあり。「たび(二字傍線)」とは田に居る人なり。それが始め也。昔は田に別に出て行きて百姓が作りをしたる也。今の世では田家とて別に百姓家が出来てある也。前方は、其近辺に田主はあらぬ也。それ故に田を守ることも古は多かりしなり。田のわさになると出てゐねばならぬ也。それ故に本家とは間がある故に田中に別に家を立てゝゐねばならぬ也。それ故に「秋の田のかりほの庵の」などいふ也。田居と云事もある也。今では田居とはいはれぬ程になりたり。「田居」とは田に行きて逗留して居る間也。「田住居」と云事なり。「しづくの田居」といふやうに「しづくの田」の事をいふやうになりたるなり。今も三保田居と名残れり。これよりしてよそにとまる人を「田人」といふ也。それを又略して「たび」といふなり。
○草枕は旅の枕詞だ。大体枕詞は、(背景を)知ることができないものが多い。「足曳の」「たらちねの」「久かたの」など(もとは)子細があって(今は)知られないのである。今は「草枕」という事は(一般に)知られているようであるから、(まるで)枕詞ではないかのようだ。それだから「木枕」「岩枕」「波枕」などと一緒に思ふのだ。けれども其の方の分類に入れるのは、第二義のことである。元来は「草枕」は旅の枕詞である。この雁がねが草枕をすることはないのである。旅と言おうがためになのだ。旅ということは一夜でもよそへ行ったら旅なのだ。「たび」という事は、「たびと」と言うことである。(古歌に)「たびとあはれ」とある。「たび」とは、田に居る人のことだ。それが始めだ。昔は田に別に出て行って、百姓が作りをしたものである。今の世では「田家」といって、別に百姓家が出来てある。先の世にはその近辺に田主は(住んで)いなかったのである。だから(特別に)田を守ることも昔は多かった。田が早稲(わさ・早く熟した状態)になると出ていなければならないのだ。だから本家とは間があるために田中に別に家を立てていなければならないのだ。それで「秋の田のかりほの庵の」などと言った。「田居」と言う事もある。今では田居とは言わない程になってしまった。田居とは、田に行って逗留して居る間のことだ。「田住居という事である。「しづくの田居」というように「しつくの田」の事をいうようになったのである。今も三保田居という名が残っている。これを由来として、よそにとまる人のことを「田人」といったのだ。それを又略して「たび」といったのだ。
□帰るとなれば悲しき物と見えるとなり。別を悲むの意なり。
「すら」は、引つく事なり。その丈一ぱいと云事なり。雁すら一ぱい、雁だけと也。「道すらに時雨に逢ひぬ」、道中向へ行く間一ぱいに時雨ふる也。「催馬楽」「此殿の蔵がき春日すら行けとつきせすたに」とは大ちがひなり。「あふやうな」は、ふと合ふやうなる也。箱を枕にするやうなもの也。枕になりても枕ではなきなり。「妹とせは木すら鳥すらあるとふを」木は木だ(ママ)け、鳥は鳥だけの夫婦のある事なり。
○帰るとなれば悲しい物に見えるというのである。別れを悲しむの意である。
「すら」は、引きつける事である。その丈一ぱいという事だ。雁すら一ぱい、雁だけというのだ。(紀貫之の)「道すらに時雨に逢ひぬ」(これは)道中、向こうへ行く間一ぱいに時雨が降るのである。催馬楽(の)「此殿の蔵がき春日すら行けとつきせすたに」とは、大ちがいである。「あふやうな」は、ふと合うような様子である。箱を枕にするやうなものだ。枕になっても枕ではないのだ。「妹と夫は木すら鳥すらあるとふを」木は木だ(ママ)け、鳥は鳥だけの夫婦のある事である。
※「前方」は、さきつかた、と読むか。
※貫之集「みちすらに時雨にあひぬいとどしくほしあへぬ袖のぬれにけるかな」
催馬楽此殿之西「この殿の 西の 西の倉垣 春日すら あわれ 春日すら はれ 春日すら 行けど 行けども尽きず 西の倉垣や 西の倉垣」。こちらの「すら」は、「さえ」と訳す。ほんの数行のコメントだが、この節には万葉集の歌についてのすぐれた知見が含まれている。現代の高取正男の論考に匹敵するような米作についての民俗学的な考究の深さに驚かされる。
※「あふやうな」以下、門人の質問に答えているうちに脱線した談話の筆記だろう。
※※三句目の響き方、四句目の上句の受け方などは、昭和十年代に景樹も含めた近世和歌を研究した茂吉が学んで、戦後の『白桃』の頃の歌に生かしたのではないかと思われる。などと言っても、誰も信じないだろうが…。

30 深夜帰雁
春の夜のおほろ月夜にねさめしてたへすや雁のおもひ立つらん
八〇 春の夜の朧月夜(おぼろづくよ)にねざめしてたへずや雁の思ひたつらん 文化二年
□「ねざめ」といへば、一ね入したる後故に、深夜になるなり。「ねざめ」には物思ふもの也。物にまぎれぬなり。よしあしともに思出るなり。翌日よりはと思ふやうな事も「ねざめ」にある也。
「たへずや」、こたへられぬさうな。立つて帰るとなり。故郷恋しきなり。
○寝覚めと言えば一寝入りした後だから、深夜になるのだ。寝覚めには、物を思うものである。雑事にまぎらわすことがない。善いことも悪いことも思い出す。翌日よりは、と思うような事も寝覚めにはあるのである。
「たへずや」は、堪えられないような(思いがして)、発って帰るというのである。故郷が恋しいのだ。
※これも類歌の海に埋没しそうな歌だが。

31 帰雁少
花によりたまたまのこる雁かねも今はとこそはおもひ立つらめ
八一 花によりたまたま残るかりがねも今はとこそはおもひ立(たつ)らめ 享和元年 初句「花ユヱニ」
□見るのに一、二羽残るやつなり。花によつて残つたのであらうに、花も散りたる故にたつそうな、と也。
○見るのに一、二羽残るやつだ。花のために残ったのであろうに、花も散ったために(渡りに)発つそうな、というのである。

32 旅にありける年の春雁のこゑを聞きてよめる
なきかはし帰るをきけば雁金のかずにつらなるこゝちこそすれ
八二 なきかはしかへるをきけば雁がねの数につらなる心地社(ここちこそ)すれ
□津の国にゐたる時であつたかとおぼゆ。
雁が鳴かはして帰るが、我もそれが羨しさにその連中にはいる心持なり。
「かりがね」、雁の音なり。「たづがね」鴨かねと同様なり。然るに雁はいつでも鳴きて通る故に「雁がねがする」「雁がね聞ゆ」といひなれたり。それよりして雁といふ事を雁がねといふ程になりたる也。これ調の転じ来たる也。理に拘はる事でなき也。二千年前よりして雁を「雁がね」といふなり。故に「雁がねの声」といふなり。
歌はことわるものにあらず、調ぶるもの也。博ちうちの類、雁がねの声と同様なり。
○津の国に居た時であったかと思い出される。
雁が鳴きかわして帰るのだが、自分もそれが羨ましくてその仲間に一緒に入るという気分なのだ。
「かりがね」は「雁の音」である。「たづがね」「鴨がね」と同様だ。そうであるが雁はいつでも鳴いて通るので「雁がねがする」「雁がねが聞こえる」と言い慣れたのである。そういうことから「雁」という事を「雁がね」と言う程になったのである。これは調べが転じて来たのだ。理に拘わる事ではないのだ。二千年前から「雁」を「雁がね」と言うのである。だから「雁がねの声」というのだ。
歌はことわるもの(理屈をこねるようなもの)ではない。調ぶるものである。(まあ)博打打ちの党類も雁がねの声(で呼び合う気分)も似たようなものだよ。
※平易な古今調の歌だが、吟じてみるとやすらかな哀調があって心地よい。よく見ると「雁金の数に列なる」というのが、何気ない装いをしながら一歩踏み込んだ表現なのだ。景樹はそこのところがうまい。凡庸な弟子たちは、そういう微妙なところをわからなかっただろうという子規の皮肉は当たっているだろう。一見学びやすそうでいて、真似できない、それが景樹の平易な歌風であった。さて、自解の末尾の唐突な一句、にわかには解しかねるが、右のように訳してみた。ところどころでぽろっとくだけた遊び人風の口調をもらすところが、景樹の座談の魅力だったのではないだろうか。

香川景樹「桂園一枝講義」口訳 17~25

2017年01月08日 | 桂園一枝講義口訳
17 早蕨未遍
みよしのゝみすゞが下は風さえてまだ萌出でず春のさわらび
六七 みよしのゝみすゞがしたは風さえてまだ萌いでず春のさわらび

□めづらしき時分なり。此歌古体にしていやみ少し。以前の「たがゆかりより」の歌は七百年以来の歌になるなり。常世になるなり。此歌は古体になるなり。「みすゝ」、すゝ竹とてかたき竹なり。多く水涯にはえる故、「水(ルビ、片仮名でミ)すず」といへり。「焉(編集の都合により代字、たけかんむりに焉)」の字を書くなり。「みすゝ刈る信濃(ルビ、片仮名で「濃」にヌ)」と云へり。「しなぬ」の枕にするなり。
吉野の「焉(前出、代字)」の下はいつも蕨の盛の時は蕨所ぢやに、「まだ」「風冴えて」となり。其外の一目千本のあたりには、ちらちら見えるに、となり。さて又「焉が下」と云ふにて、風の冴えて春まだ寒き気色あるなり。「下は」の「は」で持つてあるなり。味ふべし。
○好ましい時分である。この歌は古体でいやみが少ない。以前の「たがゆかりより」の歌は、七百年以来の歌になるのだ。(ほとんど)永遠のものとなっている。この歌は、古体になるのである。「みすず」は、すす竹といってかたい竹である。多く水際に生えるので「水すす」といっている。焉(編集の都合により代字、たけかんむりに焉)の字を書く。「みすゝ刈る信濃(※ヌは、江戸時代の万葉仮名の訓)」と云っている。信濃の枕詞にする。
吉野のみすずの下は、いつも蕨が盛んな時は蕨所じゃに(であるのに)、また「風冴えて」と言ったのである。その外の一目千本のあたりにはちらちら見えているのに、という意味である。それで又「みすずが下」と言うのであって、風が冴えて春まだ寒い気配があるのである。「下は」の「は」で持つて(その春の気配が)あるのである。味わうべきである。

※「持つてある」は、「以つてある」の当字ととり、「「は」で以て春の気配があるのだ」ととるか、送り仮名の「つ」を補って「持つ〈つて〉があるのだ」と解釈するか、わからないが、主語を補って上のように解釈した。
 15では「便」という語が用いられている。〈つて〉は、辞書では〈たより、てがかり〉といった意味である。ある事柄(題の風情)を言うのに、それを引き出すのに不自然ではない語の斡旋の仕方が、「調べをなす」ということであり、ここはその具体的な例と言ってよいだろう。 ※後日文末の訳を少し手直しした。

18 春月
春の夜をおぼろ月夜といふことはかすみのたてる名にこそありけれ
※この歌6番と同じ。別の機会の講義か。

□「おぼろづく夜」、「つきよ」とよむもよし。まことは「おぼろづく夜」なり。万葉時代、藤原より飛鳥までは、「つく夜」といふなり。調のまゝに「つくよ」といふなり。古の調のよきにつく事、しるべし。又後に「月夜よし、夜よし」といふもあれば、「月夜」とよむ事一向かまはず。別て、今では「つき夜」といふ也。又「つく夜」といふ事は今も云ふなり。春の夜を「おぼろ月夜」と云ふやうに云ひふらすは、霞が立てたのぢや、と也。「おぼろ」、おぼおぼしき也。無覚束、おほれる、おほゆる、又おもとも云ふ也。「おもひ」しかとせぬなり。胸のくもりて、はきとせぬが「おもひ」也。むしやむしやとして確ならぬを「思」と云ふなり。「思」は人の胸の不明事也。歌は「思ひ」をのぶる故義理々々しき事はなきなり。
○「おぼろづく夜」は、「つきよ」と読んでもよい。ほんとうは「おぼろづく夜」である。万葉時代、藤原から飛鳥までは、「つく夜」と言った。調べのままに「つくよ」というのである。古の調べが良い方につく事を知るべきである。又後に「月夜よし、夜よし」と言うこともあるので「月夜」とよむ事はまったくかまわない。別して今では「つき夜」という。又「つく夜」という事は今も言うのである。春の夜を「おぼろ月夜」というように言いふらすのは、霞が(うわさを)立てたのじゃというのである。「おぼろ」は、おぼおぼしいのである。おぼつかず、「おぼれる」「おぼゆる」又「おも」とも言う。思いがはっきりとしないのである。胸がくもってはっきりとしないのが、「おもひ」である。むしゃむしゃとして確かではないのを「思(ひ)」と言うのである。「思(ひ)」は、人の胸の不明事である。歌は「思ひ」をのべる(ものな)ので、義理々々しい(あまり理路の筋につく)事はないのである。

19
詠めてもおもはぬ誰かはるの夜のかすみを月にゆるしそめけん
六九 詠(なが)めても思はぬ誰(たれ)か春の夜の霞を月にゆるし初(そめ)けむ 文政三年

□「ながめ」は、物思の形なり。きよろりとしたる形なり。眼のきよろつくなり。物思ひある時なり。それ故目がうつとりとなるなり。目が長くなるなり。横に長くなるなり。「古事記」景行紀に長目とあるなり。目細くうつとりとなるなり。「源氏」に「父君に別れたまひ、ながめがちにて暮らしたまふ」とあり。物思あることなり。
さて夕暮に雲を見て、物思が出づるなどは、目に見るよりして物思ひとなるなり。しかし眺める事は見ることとかたづくべからず。目に見る事にかけて、物思の事に入るゝなり。
「月をながめて」とは、月を物思して見るなり。調度目による縁故「眺めて」とつかふなり。春月をつくづくとながめてゐても物思ある故、月を月とも思はぬなり。月を見て居ながら月を何とも思はぬ人がある、誰か、となり。誰か古へ霞を何とも思はず居たぞや、となり。霞を厭ふ心はなくて、誰か許しそめけんぞや、と云ふなり。許すまじき事をあたら月に霞む事にしたわい、となり。
○「ながめ」は物思いの形である。きょろりとした形だ。眼がきょろつくのだ。物思いがある時だ。だから目がうっとりとなる。目が長くなるのだ。横に長くなる。「古事記」景行紀に「長目」とある。目細くうっとりとなるのだ。「源氏」に「父君に別れたまひながめがちにて暮らしたまふ」とあり、物思いのあることである。
さて夕暮に雲を見て物思いが出るなどというのは、目に見ることがきっかけとなって物思いとなるのである。しかし、眺める事は見ることと片づけてはいけない。目に見る事に掛けて物思いの事に入れるのである。
月をながめてとは、月を物思いして見るのだ。ちょうど目による縁故に「眺めて」と使うのだ。春月をつくづくとながめて居ても、物思いがあるせいで月を月とも思わないのである。月を見て居ながら月を何とも思わない人はいるだろうか、(それは私以外の)誰だろうか、という(意味)である。誰が昔から霞を何とも思わないで居たでしょうか、というのである。霞を厭う心はなくて、「誰か」「許しそめけむ」(誰がそんなことを許しはじめただろうか)というのである。許すことができない事を、あたら(惜しいことに)月を霞ませて(見えなくして)しまう事にしたものじゃわい、というのである。
※「きよろりとしたる」なんて、おもしろい言い方だ。語尾の「~じゃ」というのは宣長の「遠鏡」にならったものだが、この「講義」は基本が口述筆記だから、口語資料としての価値もある。

20 春月朧
おぼつかなおぼろおぼろと我妹子がかきねも見えぬ春の夜の月
七〇 おぼつかなおぼろおぼろと我妹子が墻ねもみえぬはるの夜の月
□此体景樹に限るなるべし。「春夜行」の気色なり。

「おぼろおぼろ」と重ねたること古来なきなり。「平がな盛衰記」に「おぼろおぼろと白玉か」とあるなり。「おぼつかな」、おぼおぼしくてつきなきなり。つきとなきなり。「我妹子か垣ね」、里でも宮女の宮つかへのやしきでも云ふべし。「いも」、男より女をさして云。女より男をさして「せ」と云ふなり。「いもせ」の中、即夫婦なり。男女の中がもとなれども、夫婦ほど朝夕立並ぶものはなきなり。故に「いもせ」といへば夫婦の中なり。たゝ離して「いも」と云へば家内の事ではなきなり。男が女をよぶ名なり。天照大神弟のすさのをの尊を「わがせの君」と仰せられたり。是男をさすなり。夫を兄の字か書きてある故、兄弟を取違へたる説あり。字によるではなきなり。「せ」は男をさす名なり。
「いもと」は妹人(ルビ、いもと)なり。姉から「いもと」と云ふ事はなきなり。「古今集」に「女のおとうと」とあるなり。「女の弟」といふ事なり。男ではなきなり。女の下をやはり「おとと」と云ひたるなり。「乙人」なり。
「わぎもこ」、こは女の通称になるなり。「こらが手を」など女の手なり。今も女に「何子」とつけるなり。「わがいも」と云ふは、親みて云ふなり。「わが」とは、もろこしわが朝の類なり。「わが」と云ふは(一字アキ)天子一人仰せらるゝでなくて、わが生れたる国、又「わが里」と云へば岡崎を云ふなり。一人の事ではなけれども云ふなり。「国」、里にもいへば人にも云ふべし。必契りし人をのみ「わがいも」とは云はぬなり。親しきあまりに云ふなり。たとへばいつも呼ふ舞子を云うてもよきなり。
かき根と云うても必垣のもとに限らず。されども垣根の塵草と云へば垣の裾なり。
○この(歌)体は、景樹に限ったものであろう。「春夜行」の気色(様子)である。
「おぼろおぼろ」と重ねたことは、古来ないのだ。「平仮名盛衰記」に「おぼろおぼろと白玉か」とある。「おぼつかな」は、おぼおぼしくて(ぼんやりとしていて)月が見えないのである。「月と」ないのである。「我妹子が垣ね」は、里でも宮女の宮仕えの屋敷でも言うだろう。「いも」は、男から女をさして言う。女から男をさして「せ」と言うのだ。「いもせの仲」すなわち夫婦である。男女の仲が元であるけれども、夫婦ほど朝夕立並ぶものはないのである。故に「いもせ」と言えば夫婦の仲のことをさす。ただ離して「いも」と言うと家内(いえぬち)の事ではない。男が女を呼ぶ名である。天照大神が弟のすさのをの尊を「わがせの君」と仰せになった。これは男をさすのだ。「夫」を「兄」の字が書いてあるので兄弟を取違へたという説がある。字によるのではない。「せ」は男をさす名(語句)である。
「いもと」は妹人(ルビ、いもと)である。姉から「いもと」と言う事はない。「古今集」に「女のおとうと」とある。女の弟といふ事だ。男ではないのだ。女の下をやはり「おとと」(弟)と言ったのだ。(つまり)「乙人」である。
「わぎもこ」これは女の通称になるのだ。「こらが手を」などと(いうのは)女の手のことだ。今も女に「何子」とつけるのだ。「わがいも」と言うのは親しんで言うのだ。「わが」とは、「もろこし、わが朝」の類である。「わが」と言うのは(一字アキ)天子一人がおっしゃるのではなくて、わが生れたる国、又わが里と言えば(この)岡崎を言うのだ。一人の事ではないけれども言うのである。国里にも言えば人に言うのもかまわない。必ず契った人だけを「わがいも」とは言わないのである。親しさのあまりに言うのである。たとえばいつも呼ぶ舞子(のこと)を言ってもいいのである。
「かき根」と言っても必ず垣のもととは限らない。そうであるけれども「垣根の塵草」と言えば垣の裾をさすのである。

*ここでの景樹の古語についての知識や考証は、かなり正確なものではないだろうか。「此体景樹に限るなるべし」と言って自信作であることがわかる。「おぼつかな」で初句切れ。それを二句めの「おぼろおぼろと」というオノマトペで受ける。語呂が良くて、しかもそんなに俗な感じはしない。人口に膾炙した作品。

21 春暁月
うぐひすのあかつきおきの初こゑに今はとしらむ春のよのつき
七一 鶯のあかつきおきのはつこゑにいまはとしらむ春のよの月 文政二年 
 
□鶯は早く起る鳥なり。暁起をするなり。人の早く起るを暁おきといふなり。それを鶯につかふなり。僧の修行などには大にあるなり。「暁起」まだほのぼの位なり。「いまはと白む」、やがても夜があけるさうな、となり。短夜の気色なり。
○鶯は早く起きる鳥である。暁起きをするのだ。人の早く起きるのを暁起きと言う。それを鶯に使うのである。僧の修行などでは多くあることだ。「暁起」まだほのぼの(明ける)ていどである。「今はとしらむ」、すぐにも夜があけるそうな、ということである。短夜の気色だ。
*四句め「今はとしらむ」の四三調、関東アクセントで読むとどことなく気ぜわしくなる。

22 春夕月
あまりにも春の日かげのながければくるゝもまたで月は出にけり
七二 あまりにもはるの日影のながければ暮(くる)るもまたで月は出にけり 文化四年

□「ゆうべ」は、「ようべ」なり「よべ」なり。「ゆ」と「よ」と通ふ(な、の脱字か)り。「よひ」「ゆひ」「浦ゆ」「浦より」など通ずるなり。七ツ時分から初夜位迄をいふ。ひろきなり。
「ゆうべの月」といへば、夕に出る月なり。「ゆふ月」は日の内より出でゝあるなり。いつでも半月なり。それ故におぼつかなき事の枕につかふなり。「夕月のおぼつかなくも」などある。日のうち故見えかぬる意なり。これが「ゆふ月」なり。「ゆふべの月」といへば夕方に出づる也。
○「ゆうべ」は「ようべ」である。「よべ」だ。「ゆ」と「よ」と通うのである。「よひ」「ゆひ」「浦ゆ」「浦より」など(と)通ずるのである。七ツ時分から初夜位迄を言う。広い(時間の幅)だ。
「ゆうべの月」と言えば、夕に出る月だ。「ゆふ月」は日の(ある)内から出ているのである。いつでも半月である。それ故にはっきりしない事の枕に使うのだ。「夕月のおぼつかなくも」などと(古歌に)ある。日があるうちだから見えかねるという意味である。これが夕月だ。「ゆふべの月」と言うので夕方に出たのである。

※「春霞たなびく今日の夕月夜覚束なくもこひ渡るかな」「古今和歌六帖」二五二九。念のため三句目までが同じ歌は「万葉集」一八七八。下句「-きよくてるらむ-たかまつののに」。

23 山家春月
世の中の春にはもれし山里の月のひかりもかすむころかな
七三 世中のはるにはもれし山ざとの月の光も霞むころかな 文政九年 三句め「山里モ」を訂す。四句目「光ハ」を訂す。
□「世の中の春にもれたる」としたるがよみたてなりしを、紀州の安田が「もれし」をよしといひたり。
「世の中」にかゝづらはぬ山里なり。大空の月にはもれぬかと見えて、のがれず世中の春と同様にかすむとなり。
○世の中の春にもれたとした所が、「よみたて」であったのを、紀州の安田が(この)もれたのを良いと言った。
世の中にかかづらわない山里である。大空の月の光にはもれないかと見えて、のがれず世の中の春と同様にかすんでいる、というのである。
※この「よみたて」という語については、黒岩一郎がその著書で景樹の重要な技巧のひとつとして論じている。いわゆる〈見立て〉ということだが、事物を言語によって比喩的にとらえる際の知的な仕掛けのようなものを景樹は広く「よみたて」と言っている。

24 柴の戸に鳴きくらしたるうくひすの花のねくらも月やさすらん
七四 柴の戸に鳴(なき)くらしたる鶯の花のねぐらも月やさすらん 文化十二年
□一日花を見くらしてその所に月を見る、長閑なる気色なり。前よりは此方おもしろきなり。すべて春夏の月は横からさすなり。さしこむ月を多くいふなり。こちに月かさすより鶯の花の塒もさすであらう、といふなり。
○一日花を見て暮らして、その(同じ)場所に月を見るという長閑な気色である。前(の歌)よりはこっちの方がおもしろい。すべて春・夏の月は、横から射すものである。射し込む月を多く歌にして言うのである。こっちに月が射すやいなや鶯の花の塒(ねぐら)にも射すであろうというのである。

25 題不知  
旅にして誰にかたらんとほつあふみいなさ細江の春のあけぼの
七五 旅にして誰(たれ)にかたらむ遠(とほ)つあふみいなさ細江(ほそえ)の春の明ぼの 

□「題不知」の事、山脇道作など、一番にいうて来たり。秋山もいへり。詩でいはゝ(ば)無題なり。題は端書なり。はしがきの書様がなきなり。題に書かれぬは書ずともよし。又書にくい、書きともない、皆「題知らず」でよきなり。「古今集」にも撰者が自貫之躬恒などの歌に「題知らず」があるなり。又此「桂園一枝」は門人の集めたるとしたる故、猶又「題知らず」としてよきなり。たとひ序文に景樹あらはす、とありても苦からぬなり。
又「よみ人知らず」も心ある事なり。「古今」に歌合の歌に「よみ人知らず」のあるは、撰者が一緒に歌合をしておきて居ながら「よみ人知らず」があるなり。
此歌、題には一向書かれぬなり。実景なり。遠江灘を舟にてはいやでありし故に、ぬけ道を行きたらば、山の出たる所に引佐細江がありしなり。古人も「心あらん人に見せばや津の国のなにはわたりの春けしきを」と同様なり。
関東往来の第一番のけしきなり。夢島の景色など、別して妙なり。春の夢島の歌もあれども、返ていふと悪しきやうに覚ゆるなり。  
〇「題不知」の事(は)、山脇道作など一番に言って来た。秋山も言った。詩で言うと「無題」だ。題は端書である。「はしがき」の書き様がないのである。題に書くことができないのは書かなくともよい。又書きにくい、書きたくもないのは、皆「題知らず」でよいのである。「古今集」にも撰者みずから貫之、躬恒などの歌に「題知らず」があるのだ。又この「桂園一枝」は門人が集めたものとしてあるのだから、なおさら「題知らず」としてもよいのである。たとえ序文に「景樹著す」とあっても苦しからぬことである。
又「よみ人知らず」も心ある事なのだ。「古今」に歌合の歌に「よみ人知らず」の歌があるのは、撰者が一緒に歌合をしておいて居ながら「よみ人知らず」の歌があるのである。
この歌、題にはまったく書けないことである。実景である。遠江灘を舟では嫌だったために、ぬけ道を行ったら山を出た所に「いなさ佐細江」があったのだ。古人も(歌っている)「心あらん人に見せばや津の国のなにはわたりの春(※「の」、脱字)けしきを」と同様だ。
関東に往来(した時の)の第一番の気色(景色)である。夢島の景色など格別に玄妙である。春の夢島の歌もあるけれども、思い返して言うと(それほど)よくないように思われる。

※「ふじのくに文化資源データベース」によれば、この歌は石碑となって「気賀関所の隣りに整備された文学広場にあります」とのこと。 2017.8.17追記
※引例は『後拾遺集』所収の能因法師の著名歌。この歌は景樹の畢生の名歌のひとつ。

☆以下、拙著『香川景樹と近代歌人』より。
「ここには『桂園一枝』編集の舞台裏や、「題知らず」の扱い方についての景樹の柔軟な考え方が、飾りなく語られていて興味深い。座談の雰囲気までも彷彿としてくる臨場感あふれる口述筆記となっている。一般的な習慣にとらわれている弟子たちは、「題知らず」についての他流からの非難に不安になることもあっただろう。ここで「秋山」と言っているのは、かつての論敵村田春海の弟子の秋山光彪が『大ぬさ』と題した桂園一枝評を板行したもののことだろう(※)。しかし、歌集に従来の部立てに存在しない「事につき時にふれたる」の章を別に設けたぐらいだから、景樹はそこのところではまったく自由だった。掲出歌は、旅行記として切り離されて流布するテキストのうちの一首であるし、旅行中の嘱目なのだから題などいらない。まさに「実景」の歌だ。ここからわかることは、題詠の題の形骸化と和歌の具体的な内実の獲得とが相関関係にあり、発表する場に左右される恣意的なものとなっているということである。
景樹の講義は、歌そのものよりもそれにまつわる古典和歌についての理解が正確なことに驚かされる。景樹は「古今集」研究については大家であり、現代の研究者もそれは認めている。景樹の『古今和歌集正義』は、当時可能な限り厳密なテキストについての考証を行った『古今和歌集』の注釈書である。たとえば大岡信との対談で和歌研究者の奥村恒哉が、「下手な新しい注釈書はいらない」ほどに優れたものだと言ったことがある(『海とせせらぎ 大岡信対談集』)。
景樹の注釈は、解釈やテキスト本文の校訂をめぐって細部に論争的な観点を提示している事が多く、これを読んでいると、和歌好きの門人たちには、おもしろくてたまらなかっただろうと思われる。」
(※) 「現在にものせし集に題しらずとかくべきことかは」『大ぬさ』より 

香川景樹「桂園一枝講義」口訳 1~16

2017年01月07日 | 桂園一枝講義口訳
「桂園一枝講義」口訳 1~16

・以下に「桂園一枝講義」を訳出する。テキストは『桂園遺稿 下巻』(彌冨濱雄編 明治四十年 五車樓刊)による。香川景樹に関心を持つ方の御批正がいただけたら幸甚である。
・原文はなるたけ原本そのままとしたかったが、データ処理の関係から二字続きの繰り返し記号については、起こして表記した。歌の一字の繰り返し記号(ゝ、ゞ)はそのままである。旧活字は新活字に改めたが、あえてそのまま残したものもある。
・景樹の講義にあたる部分は、その文頭に□をつけて見分けやすくした。訳は、○のあとにつけた。注記は、(*)のあとに付けた。訳文中につけたものもある。
・315番までの算用数字は、便宜のため訳者が付した。そのあとの一からはじまる漢数字は、正宗敦夫(正宗白鳥の弟)校訂の『桂園一枝』(昭和十四年刊)の歌番号と表記、および下注を併記したものである。(40番までは5年ほど前に「万来舎」のホームページに掲載したものを改めた。)正宗兄弟の歌については、http://www.sunagoya.com/tanka/?p=13819の2015.11.10の項を参照してほしい。
・原文は濁点も句読点もないうえ、若干の錯誤もあるため、一部は読み取りに困難をきわめた。そのため訳者の解釈が随所に加えられている。なお掲出歌の表記や内容が通用の『桂園一枝』と異なっているものもあるので注意を要する。なお無断転載はお断りする。
 
春歌
1 御譲位あらんとする年の春家の会始に松迎春新と云ふ事をよめる 
○(訳)御譲位があろうとする年の春、家の歌会始に「松迎春新」という事を詠んだ。

今年よりあらたまるべきこゑすなりおほうちやまのみねの松かぜ
一(正宗敦夫註 以下同じ) 今年よりあらたまるべき聲すなり大内山のみねの松かぜ 文化十四年

□(本文 以下同じ)文化十四年丁丑三月廿二日、光格天皇の今上への御譲位なり。さて其年東塢亭の兼題「松迎春新」と云ふ題を出されたるより、御譲位あらんとする云々。

□家の會始など對してかゝれたるは、いとおほけなき物から、此の集はもはら風流の最上を旨とせられたるより、まづ巻首にかくべつの事の上品の限りを出されたる物ぞ。
歌の意はやがて御譲位あらんずらん御さた△△らせ給ふによりて、今年よりあらたに東宮位に即かせ給ふことの風聞を、大内山のみねの松風になぞらへ奉りて、したにめでたき御世の春を祝したるなり。
「大内山」は、西の仁和寺のほとりの山をいふなれど、こは大やう九重をさして云はれたる也。巻首の歌なる故に、調べ優にして及ぶべきさかひならん事云はんも中々なり。  ※ふ→ぶ 訂正

○(訳 以下同じ)文化十四・一八一七年、丁丑三月二十二日光格天皇の今上(仁孝)天皇への御譲位があり、(そういうことから)その年の東塢亭(*景樹の屋敷の名)の兼題に「松迎春新」という題を出された事から「御譲位あらんとする云々(うんぬん)」(の詞書がある歌を詠んだ)。
自家の歌会始などを(宮中のことに)対して書いてあるのは、とても恐れ多いことだけれども、この集はもっぱら風流の最上を(示すことが)旨とされたために、まず巻首に格別の出来事で上品(じょうぼん)の限り(の歌)をお出しになったものだ。
歌の意は、まもなく御譲位があるだろうという御さた(二字欠字)なさることによそえて、今年よりあらたに東宮が位にお即きになることの風聞を、大内山のみねの松風になぞらえ申し上げて、地下の者にもめでたい御世の春を祝したのである。
大内山は西の仁和寺のほとりの山をいうのであるけれど、これは大体宮中を指して言われたのである。巻首の歌であるために調べが優であって、(歌学びする者が)目標としなくてはならない歌境である事は、(わざわざ)言わなくてもいいぐらいのことだ。

※この部分の「題を出されたる」「旨とせられたる」「上品の限りを出されたる」という敬語表現は、後の筆記者(景恒)の香川景樹翁本人への敬語と考えるべきである。このあたりの事情は編者が本テキストの7番の部分に注記している。なお継子景恒は、この歌の歌会の翌年に出生している。
以下の筆記は、鎌田昌言。(山本嘉将『香川景樹論』一三八ページによる。)

2  春風春水一時來
氷とくいけのあさ風ふくなべに春とやなみのはなも咲くらん
二 氷とく池の朝かぜ吹くなべにはるとや浪の花も咲くらむ 文化八年

□春立つけさしも、池上に吹きわたる朝風の吹くや否や、氷のしたにとられたる浪も、さ△(一字欠字)は今朝しも氷を吹きとく風の吹、やがて浪も春も来たりとてや、浪の花咲出でたりと云ふなり。
○(とりわけ)春立つ(日である)今朝は、池上に吹きわたる朝風が吹くや否や、氷の下に取られていた浪も、さては今朝こそは氷を吹き溶かす風が吹く(のだな)、そのまま浪も春が来たのだと言って、浪の花(も)咲き出たというのである。 

※欠字は「て」だろう。

3 春水澄
しづくにもにごらぬ春になりにけりむすぶにあまる山の井の水
三 雫にも濁らぬ春になりにけり結ぶにあまる山の井の水 文化四年

□水を「むすぶ」は、掬(きく)するなり。手してくむなり。さて氷のとけわたりて山の井の水いやまして、其結ふ雫にも濁らぬ春になりしといふなり。「結ぶ手のしづくに濁る山の井のあかでも人にわかれける(ママ)かな」。
○「水をむすぶ」は、掬(きく)するのである。手でくむのである。さて氷がすっかり溶けて山の井の水がいや増して、(泉が)その手ですくう水の雫にも濁らないような春になったというのである。「結ぶ手のしづくに濁る山の井のあかでも人にわかれける(ぬる)かな」(という古歌のこころである)。

※「むすぶてのしづくににごる山の井のあかでも人にわかれぬるかな」つらゆき「古今和歌集」四〇四。

4 瀧音知春
千早振かみのみやたきおとすみてよしのゝおくも春やしるらん
四 千早振る神の宮瀧音すみてよしのゝ奥も春やしるらむ 享和三年 四、五句目「山吹サケリ瀧ツセ毎ニ」 文政九年

□「宮瀧」は吉野の山おくにありて世に名高きたきなり。法皇よしのゝ宮瀧に御幸ありし時。
○宮瀧は吉野の山奥にあって世に名高い滝川である。寛平の法皇(*宇多天皇、亭子院)が吉野の宮瀧に御幸あった時(このあと刊本『桂園遺稿』では四行空白)


□歌の意は、「神の宮」と云ひ、「おとすみて」と云ふは、春立ちかへり、水上の氷もとけわたり、瀧の音いやましに聞ゆるを云ふなり。「音澄む」とは、春に限るべからねど、のどかなる春に立ちかへり、いやましに音のすみわたらんす△△△△き。さて其瀧の宮(※誤植)あたりの里々もさては春なりと、心のどかにならんずらん、とよまれたるにて、優なる調吟味すべし。
昌泰九年十一月廿一日、寛平法皇宮の瀧御遊覧ありしとき
「拾遺集」春上「年月のゆくへも知らす山かつはたきのおとにや春を知るらん」右近、同じ意なり。
素性御供に侍りて。
「後撰」覉旅「秋山にまどふこゝろを宮たきの瀧のしらあわにけちやはてゝん」
これも△△△△の「水淡」を「しらの」とよみたがへたる写し誤なるべし。

○歌の意は、「神の宮」と言い「おとすみて」と言うのは、春が立ちかえって水上の氷もすっかり溶けて、瀧の音がいや増しに聞こえる様子を言うのである。「音澄む」とは、春に限らなければならないわけではないが、のどかな春に立ち返って、いや増して音が澄み渡ろうとす△△△△(四字欠落)た。それでその宮瀧あたりの里々(の住人)も「さては春になったようだ」と心がのどかになるであろうよ、とお詠みになったので、(この一首の)優美な調べを吟味すべきである。
昌泰九年十一月廿一日、寛平法皇、宮の瀧まで御遊覧なされたとき
「拾遺集」春上「年月のゆくへも知らず山がつはたきのおとにや春を知るらん」右近(の歌)、と同じ作意である。
素性が御供として仕えていて
「後撰和歌集」覉旅の部に「秋山にまどふこゝろを宮たきの瀧のしらあわにけちやはてゝん」
これも△△△△(四字欠字)の水淡(みなわ)を「しらの」と読み違えた写し誤りであろう。

※(「後撰和歌集」一二三七)に「法皇吉野の滝を御覧じける」として「宮の滝むべも名におひて聞こえけり落つるしらあわの玉とひびけば」がある。景樹は「瀧の白淡」(2017.11.12訂正)を「み淡」の誤写と考えたのではないか。△△△△は、それを後に誤りと見て消したあとであろう。たしかに「たきのしらあわ」は練れない表現であり、「△△△△(四字欠字)の水淡」の「水淡」は、「水沫(みなわ)」と同じ意味である。後代の正徹の歌に「水上にいさ白淡をよるべとてつたへどふともながれとほくは」と、「しらあわ」を「白淡」と書いた例がある。  ※ 2017.11.1訂正
 そうして、△△△△には、「しらあわ」という語が書かれていたのではないか。「しらあわ」を歌語として用いたのは、頓阿や正徹ら中世の歌人であり、寛平法皇以前にこの用例が見られないとすれば、景樹の言っていることは当たっている可能性が高い。「しらの」とよみたがへたる」は、寛平法皇の歌の四句め、「落つるしらあわの」を指しているとみるべきだろう。法皇の歌として人口に膾炙しているものを訂正できないと考えた後人の訂正がここに加わっているとみるべきではないか。あるいは編者が皇室をはばかったか。刊本『桂園遺稿』の四行空白もここに法皇の歌についての意見が述べられていた可能性が高い。七首目のあとの注記は、これに多少関連しているだろう。
 景樹の説を解説すると、たとえば『くずし字解読辞典』(東京堂出版)などを参照すると、仮名「み」の草書は、「羊」の部分が「白」の草書と酷似している。また「大」は仮名「ら」の草書に酷似している。「美」の草書を「しら」と二文字に誤読する可能性はある。岩波の新古典大系本を見てもテキストは「しらあわの」になっているが、この説は注記に値するものだろう。「たきのみなわ」の用例は何十例もある。これを「みなわの」と書き換えると、「宮の滝むべも名におひて聞こえけり落つるみなわの玉とひびけば」、「秋山にまどふこゝろを宮たきの瀧のみなわにけちやはてゝん」となって四句めの字余りは解消され、歌も不自然な感じがなくなって調べがよくなる。景樹の研究者としての目の優秀さを思わせられる。        17.8.15 1-4を修正した。

5 早蕨   
春日野のわかむらさきのはつわらびたがゆかりよりもえいでにけん       
六六 かすが野の若紫の初わらびたがゆかりよりもえ出でにけむ 文政七年
□「春日野」奈良の昔なりし時は、をとめらいづくはあれど、此「春日野」に出て、皆わかなつみたりし舊都をしのびて、此ふるさとの春日野の色よき若紫・はつわらびは、むかしつみはやしつる、そのたがゆかりよりか、もえ出すらん、と云ふ意なり。
○「春日野」、奈良の昔だった頃は、少女らがどこに住んでいようと、この春日野に出て、みんなして若菜を摘んだ旧都を偲んで、このふるさとの春日野の色よい若紫の初蕨は、その昔に摘んでほめそやした、その誰のゆかりから萌え出たのだろうか、という歌意である。
※文の切れ目がわかりにくいが、一応このようにとってみた。

6 春月     
春のよをおほろ月夜といふことはかすみのたてる名にこそありけれ
六八 はるの夜をおぼろ月(づく)よといふことは霞のたてる名に社(こそ)有(あり)けれ 
□世の中に「はるの夜をおぼろづき夜」、「おぼろづき夜」と云ひならはすは、此のかすみといふものゝ立てる名なりけり、と云ひ、「春夜の朧月」と云ふは、畢竟「霞のたてる」うき名なりけり、とやうのこゝろなり。
○世の中に「春の夜を朧月夜」、「朧月夜」と言い慣わすのは、この霞というものが立てる評判であったよと言い、「春夜の朧月」というのは結局霞が立てるうわさなのであったよ、というような心である。

7 ある年の春子の日にもまからでこもりをり
雪(※「雲」とあるが誤植)ふかき北白川の小まつばら誰がひくそでにはるをしるらん
一四 雪深き北白川のこまつ原たがひく袖に春を知るらむ 文化十二年 四句目 ワガひく 五句目 春ヤ

□春も猶雪のふかき「白川の小松原」。ことしはうきことありて、引こもらひ居り、さぞ引人のあらんを、ことしは「たが引く袖に春を知る」ならん、といふなり。
○詞書「ある年の春の子の日にも参らないで引き籠っていた」。春もなお雪の深い白川の小松原。この年は憂き出来事があって、引こもっていた、さぞ(子の日の小松を)引く人が(大勢出て)いただろうに、今年は「誰が引く袖に春を知る」ということになるのであろうよ、というのである。

*初句から二句めにかけてのカ行音と北白川という地名の響きが心地よい歌。また、微妙に旧来の歌枕的な名所とは、少しずれた北白川という地名の呼び込み方もなかなかのもの。
*このあと『桂園遺稿 下巻』には、四字下げて以下の編者による断り書きがある。 ※

◇浜雄云、以上はおのが所蔵、翁が自筆校正の「詠草奥書留」中に綴込みたる反故を写し清めてこゝに補ひたるもの也、原文字は景恒ぬしの筆にて、しかも敬語をさへ用ゐて書ければぬしが講じたるものなるべし。
○浜雄が付記する。いわく、以上は私が所蔵している、翁の自筆校正の「詠草奥書留」中に綴込んであった反故を写し清めてここに補ったものである。原文字は(子息の)景恒ぬしの筆で、しかも敬語をさえ用いて書いているので(景恒)ぬしが(その門人に景樹の歌を)講じたものであろう。
  17.8.15 7を修正した。

8  柳
うちはへし柳の糸はすがの根のながきはる日にあはせてぞよる
五八 うちはへし柳の糸はすがのねのながき春日にあはせてぞよる

1□「柳の糸」、古くより見立てたり。和漢ともに人心同じ。「萬葉」にもあるなり。されども、ただ「糸」の縁なくて「靑柳の糸」とばかりは詮無き。「旅」といへば「旅衣」といふの類あし。「打はへし」「糸」によつて云ひ出だすなり。「はへ」(*下線部原文は傍線。以下同様の表記とする)は横にするなり。釣の糸を「はへる」とは、はへ縄と云うて、水上に延(ルビはへ)るなり。さて柳の糸は縦なれども風になびくより、「はへて」と使ふなり。垂るといふが當然なれども、それは其景色によるなり。「打」はかろく添へるなり。重くなるといふ説に一概すべからず。「打きく」、「打みる」など云へるなり。「打」と云詞、強きやうなる詞なれども、かへつて下の詞が優しく軽くなるなり。「菅の根」、長きもの、別して「春日」につかひ慣らしたる詞なり。
2□春の日の「長き」と柳の糸の「長き」とが、身幅よく合ふによつて「合はせて」と云ふ。春と糸となり。「よる」は即ち縁なり。春と糸とよき合せもの也。「てる月にまさきのかつらよりかけて」(※)などあるなり。此歌吟じて知るべし。「春日」云ひ馴しなり。夏日、秋日、冬日の三は、云ふべからず。調のよきは耳に入りやすく心に通りやすし。通りやすきは感じやすし。感ずれば天地一なり。此(※「見」脱字)分が歌をしるなり。
3□「〈道之不行也、我知之矣。〉知者過之、愚者不及天下」の大道は「中庸」にあり。調べも中庸の所が第一なり。即ち調べの整ふ事なり。さて古の例によるといふことは偏固なり。春日など古人が云うてもよければよきなり。あしければあしきなり。それをかみわけねば手に入つたではなきなり。例によりて云へばかへつて調を失ふことあるなり。食すれどもよく味を知るものなしと云ふ類なり。何分耳にさはらず。調味のよきを知るべし。
1○「柳の糸」は、古くからそう見立てている。和漢ともに人が心(に思うことは)同じだ。「萬葉集」にもある。けれどもただ糸の縁(が)なくて「青柳の糸」という語だけ(を使うこと)は甲斐がない。旅と言えば「旅衣」というような類(の歌語の斡旋は)よくない。「打はへし糸」(の縁)によって(柳の糸と)言い出すのである。「はへ」は横にするのである。釣の糸を「はへる」とは「はへ縄」といって水上に「延(ルビはへ)る」のである。さて柳の糸は縦であるけれども風になびくのにより「はへて」と使うのである。「垂る」と言うのが当然であるけれども、それはその(風になびく)景色によるのである。「打(つ)」は、軽く添えるのである。重くなるという説に一概にするべきではない。「打きく」「打みる」などと言っているのである。「打」という詞は、強くみえる詞であるけれども、かえって下の詞が優しく軽くなるのである。菅の根は長いもの、別して「春日」に(とり合わせて)使い慣らした詞である。
2○春の日の長いのと柳の糸の長いのとが身幅よく合うので「合はせて(ぞよる)」と言う。春(張る)と糸とである。よる(撚る)は即ち縁(語)だ。春と糸と(は)よき合せものだ。(だから古歌に)「てる月にまさきのかつらよりかけて」など(と)あるのである。この歌(は)吟じて知るとよい。「春日」(は)言い馴れている。夏日、秋日、冬日の三つは言うものではない。調がいいものは耳に入りやすく心に通りやすい。通りやすいのは感じやすい。感(応)すれば天地は一つである。この(※見)分けが歌を知る(ということ)である。
3○「〈道之不行也、我知之矣(論語)〉知者過之、愚者不及天下」(「中庸」)「(孔子は言った)私は道の行われないわけを知っている、と。智者はその智が高遠に過ぎて、道を行う必要がないと思い、愚者は智が及ばず、道を行う方法を知らない」の大道は中庸にある。調べも中庸の所が第一である。つまりは調べが整うという事である。さて古例によるということは偏固(に陥りやすいということ)である。「春日」などと古人が言っても良ければ良い、悪ければ悪いのである。それをかみ分けなければ手(の内に)入った技量はないのである。古例に準拠して言うと却って調べを失うということがある。食べても味のわかる者がいないというのと同じである。何分にも耳に障らないような、調べのほどよい味わいを知るべきである。

*「春と糸となりよるは即ち縁なり」というのは、聞き書きだからこういう表記になる。例歌は、河原左大臣(源融)の「後撰和歌集」一〇八一、及び「古今和歌六帖」二三八五、所収歌「照月をまさきの綱に撚かけて飽ず別るる人を繋がむ」の記憶ちがい。
17.8.16 8を修正した末尾の一文の訳を変えた。


9 柳露
靑柳のいとふき亂す春風の絶間をつゆはむすぶなりけり
五九 靑柳の糸吹(ふき)みだすはるかぜのたえまを露は結ぶなりけり

□「絶間をむすぶ」、結ぶは、糸の常状なり。それを見立ていふ。青柳の糸の揃うてをるを、春風がふきみだす。しかるに其吹絶たる間があるなり。風のきれめを露が結ぶといふが趣向なり。 
○「絶間を結ぶ」、結ぶは、糸の常状である。それを見立てて言った。青柳の糸が揃っているのを春風が吹き乱す。けれどもその吹き絶えた間があるのである。風の切れ目を露が結ぶというのが趣向である。 


10
打なびくやなぎの糸のながければむすびあまりてつゆやおつらん
六〇 うちなびく柳の糸のながければむすびあまりて露や落(おつ)らむ 文政八年 三句目「ながキニモ」を訂す。

□「靡く」、横になるなり。「打延」とはすこし異なり、詞のよき方につくべし。たよたよとする糸が、あまり長き故露が結ばん々々とすれど、ねから結はれぬなり。結んだる端がよけいに余る故、結んでも結んでも、またまた端があるなり。よう結ばずしてとうとう落ちたとなり。不調法者に長紐の文匣を結はすが如し。遂には得結はぬなり。上からつるつるとおく露が先まで行かずして落つるなり。露ならばおきあまりたるなり。それを「結ぶ」といふが露の本体なり。むすぶと云ふは元来物なき処へ物の出たる事なり。「むすひ」とも云ふなり。もとは「むす」といふ事なり。苔の「むす」など是なり。〈貌〉を云ふ故に「び」となるなり。
○「靡く」は横になるのだ。「打延」とはすこし異なり、詞の良い方に付ける。たよたよとする糸が、あまり長いために露が結ぼう結ぼうとするけれども、根から結われないのである。結んだ端が余計に余るため結んでも結んでも、まだまだ端があるのだ。うまく結えなくてとうとう落ちたというのである。不調法者に長紐の文匣を結わせるようなものだ。さいごまで結ぶことができない。上からつるつると置くが先まで行かないで落ちるのである。露ならば「置き余りたる」だ。それを「結ぶ」と言うのが露の本体である。「結ぶ」と言うのは元来物のない処へ物が出てきた事である。「むすひ」とも言うのである。もとは「むす」という事だ。「苔のむす」などが是だ。〈貌〉(かたち)を言うために「び」となるのである。
□さて露のおきたるを「結ぶ」と云ふ。糸に又「結ぶ」縁ある故「むすぶ」事を合してくるなり。さて糸の方で云へば、糸が長ければなり。露で云ふと、あまり露が多い故に落ちくるなり。それを「柳の糸の長ければ」と云ふものを持て出て、邪魔をするなり。これが歌なり。
池田より一枝の評出でたる中に出たり。
○さて露が置いたのを「結(むす)ぶ」と言う。糸に又「結ぶ」は縁があるために「むすぶ」事を合わせて来るのである。さて糸の方から言うと糸が長いからだ。露(の方から)言うとあまり露が多いために落ちて来るのだ。それを「柳の糸の長ければ」と言うものを持って出て邪魔をする。これが歌というものだ。
池田から「桂園一枝」の評が出た中に出ている。

11 夕柳
けふもまたなびきなびきて永き日のゆふべにかゝる青柳のいと
六一 けふもまた靡きなびきてながき日の夕にかゝる青柳のいと 文化十一年
□「けふもまた」数日連日の事に聞ゆるなり。かゝる糸の縁を以て、暮に向はするを云ふなり。
○「今日もまた」というのは、数日、連日の事に聞こえるのである。このような糸の縁(ゆか)りによって暮に向かわせることを言うのである。

12 故郷柳
かへりきてとけどもとけずなりにけり結びおきつる青やぎの糸
六二 かへりきてとけども解ず成にけり結び置つる青柳の糸 文化十四年

□唐流より出たる歌なり。人と別るゝ時、柳の糸を綰ぬるなり。「わかれは道遠きのみかは」などと、それを祝直さんために柳をむすぶなり。又再逢はん為めに結ぶのじやと云ふ祝なり。有馬王子の結松の事あり。それと同意なり。柳は新京朱雀のしだり小柳など云ひたり。大に柳を植ゑたる事なり。大道には柳を植ゑるなり。とけどもとけず、柳肉付になりてしまうたるなり。旅に年経たる姿見ゆるなり。此柳例もなく新しきなり。さて「故郷」の事で秋山の難あり。故郷はもとのさとなり。故入道中納言など云ふ事あり。「故」は「新」に対して云ふなり。ふるものと云ふ事なり。「故」といへば再返らぬの名なり。それ故に故郷といへば志賀の都其外、昔の都をいふが第一なり。それを旅で云ふのは當たらぬといふ。これなど秋山に限らぬなり。本居なども云うたり。詩には旅に出て居る家を「故郷」といふこと、めづらしからぬなり。日本では故郷と云ふなり。しかるに題詠では旅ではすまぬとなり。題詠にはないと秋山がいうた故に、無據あるというて故郷の事を云出したり。「後度百首」に「故郷」と二字の題あるなり。秋山はあるまいと思ひたるなり。然るにあるなり。例をいふ故、例があると云はねばならぬなり。
○中国の風俗から発想された歌だ。人と別れる時に柳の糸を綰(わが)ねる(※ため曲げて輪にする)のである。
「わかれは道遠きのみかは」(※)などと、それを祝い直すために柳を結ぶ。又再び逢う為めに結ぶのじゃという予祝(の儀礼)だ。有馬皇子の結び松の事例がある。それと同じ意。柳は新京(平安京)朱雀(大通り)の枝垂れ小柳などといった。大いに柳を植えた。大道には柳を植えたのである。解いても解けずに柳の枝は肉付き(くっついてこぶのよう)になってしまったのである。旅をしているとその年月を経た姿を目にすることがある。この柳は作例もなく新しいのである。さて故郷の事で秋山の論難※があった。故郷はもとの里をさす。故入道中納言などという前例がある。「故」とは「新」に対していうのである。「ふるもの」という事だ。「故」といえば再び返らないというものの呼び名である。だから「故郷」といえば志賀の都や、その外昔の都のことをいうのが第一である。それを旅でいうのは当たらないという。これなど秋山に限らないのである。本居(宣長)なども言っている。(だが)漢詩には旅に出て居る家を「故郷」ということはめずらしいことではない。日本では(もとのさとという意味で)「故郷」というのである。それなのに題詠では旅ではすまぬなどという。「題詠にはない」と秋山が言ったので、(私は)よんどころなく「ある」といって故郷の事を言い出したのだ。「後度百首」に「故郷」と二字の題がある。秋山はあるまいと思ったのだ。けれどもある。(わざわざ)先例をいうのだから、例があるといわなければならない。
※秋山は、秋山光彪著『桂園一枝評』天保元年のこと。
※「別はみちのとほきのみかは」。『千載集』所収。詞書「堀河院御時、百首歌たてまつりける時、わかれの心をよみ侍りける」歌「行すゑをまつへき身こそおいにけれ別はみちのとほきのみかは」前中納言匡房。
 
13 水郷柳
三島江の玉江のさとの川やなぎいろこそまされのぼりくだりに
六三 みしま江のたまえの里の河柳色こそまされのぼりくだりに
□思ひ切つたるよみ方なり。まんざら聞えぬではなき故出したり。「三島江の玉江の里」、「万葉」によめり。淀川のほとりなり。舟も何も云はねども、道理が聞えたらばよきなり。文句の上に筋を云ふ事ではなきなり。理とは文句の上ではなきなり。一首が聞えたらば理はあるなり。味ふべし。
○思い切ったよみ方である。まんざら評判にならないではなかったので(ここに)出した。「三島江の玉江の里」は、「万葉」に詠まれている。淀川のほとりである。舟も何も言わないけれども、道理がわかるならばそれでいいのである。(歌の)文句の上に筋を言う事ではない。理とは歌句の上に(もとめるものでは)ないものだ。一首が(自然に)耳に入るなら理はあるのだ。(それを)味わえばよい。

※これは流麗な調べと鮮やかな色彩をもって一つの美的な世界を構築しており、しかも平易である。景樹が判をした「六十四番歌結」に久景作「三しま江の玉江のあしを吹くかぜにみだるるたづの声のさやけさ」がある。こちらもなかなかの作。また、講義の言葉は、現代でもありがちな風潮を批判したものだ。

14 遠村柳
山もとにたてるけぶりも青やぎのなびくかたにとなびく春かな
六四 山もとにたてる煙も青柳のなびくかたにと靡く春かな

□「山本」に村といふこと、あまりよからぬ詞故に、とかく「里」といふ方よきなり。今「山本の里」といふは通例なり。今山本とばかり云うても、「里」に聞馴れたるなり。中昔の例をいへば、多く云へり。いはんやここに烟をいへば、いよいよ「里」なり。「村」あるなり。聞えぬと云うても聞えたらば歌なり。「参宮」といへば伊勢を云はずとも伊勢参宮なり。
「烟」と「柳」とくみたるものなり。「柳如烟」と云ふ題もあるなり。此歌は、烟が柳のまねをするなり。これが歌なり。柳が烟のまねをすると云うては、歌はなきなり。春景の柳には誰も心ひかるゝなり。春色の妙なり。柳も烟の如き無心ものなり。
○「山本に村」ということは、あまり(続きが)よくない詞なので、ともすれば「里」という方がよいのである。現在「山本」の「里」というのは通例だ。現在は「山本」(山のふもと)とばかり言っても「里」で聞き馴れている。中昔の例をいうと、多く言っている。ましてここに烟(ということ)を言ったら、いよいよ里ということになる。村があるのである。(連想がつながるわけが)わからないと言っても、通じるのなら歌だ。参宮といえば伊勢を言わなくとも伊勢参宮のことである(のと同じだ)。
烟と柳とは組んだものである。「柳如烟」という題もある。この歌は烟が柳の真似をするのである。これが歌というものだ。柳が烟の真似をすると言ったら歌にならないのである。春景の柳には誰もが心ひかれる。春色の妙だ。柳も烟のように無心のものである。

※南画風ののどかな情景を演出するのに、細かい機知を浸透させている歌だ。

15 春草短
道のべの(※)こまのふみしくからなづな下にや春をもえわたるらん
六五 道の辺に駒のふみしくからなづなしたにや春を萌(もえ)わたるらむ 文化二年

□「なづな」、薺なり。「から」といふは、昔はよく分りたる事とみゆるなり。〈つけ語〉と思ふべし。「から衣」、から萩、から猫など云ふなり。説多あれども、こゝには略す。まづ「なづな」とみるべし。「なづな」、元日の朝是非ともに白花をさくなり。元日に花ある故に二月頃に實もあるなり。至て若菜の早きものなり。さて此薺の形は上から踏付けたやうなものなり。それ故に「駒のふみしく」ときれいに詞づかひをして云出たしたるなり。春ぢやと「萌えわたる」なり。芽を「萌わたるらん」となり。「春ともえわたるらん」と云へば道理がかなふなり。調がなきなり。かつ又意味もちがふなり。春の氣につれて萌わたるなり。
○「なづな」は薺である。「から」と言うのは昔はよく分っていた事とみえる。「付け語」(接頭語)と思うとよいだろう。から衣、から萩、から猫などと言うのである。説は多くあるけれどもここには略す。まず薺とみるとよい。薺は、元日の朝かならず白花を咲かせる。元日に花があるから二月頃に實も付く。きわめて若菜の早いものだ。さてこの薺の形は、上から踏付けたようなものだ。だから「駒のふみしく」ときれいに詞づかいをして言い出したのである。春ぢゃと萌えわたるのだ。芽が「萌えわたるらん」ということだ。「春ともえわたるらん」と言えば道理がかなう。(でも)調べがない。かつ又意味も違ってくる。春の氣につれて萌えわたるのである。
※初句、『桂園一枝』では「道の辺に」であるが、ここでは「道の辺の」となっている。
※「からなつな下にや春をもえわたるらん」は擬人法で、薺の花を擬人化してその心に春の気配がわきたっているということだろう。これは景樹の説く「調べ」ということがよくわかる例である。「調べ」には、詩性とか、詩語の働き方の妙味といったニュアンスが伴っており、語の続きのなだらかさだけを意味するものではない。「春を」と「春と」の微差を説く景樹の見識は冴え渡っていると言うべきだろう。

16  早蕨
かすか野のわかむらさきの初わらびたがゆかりよりもえ出にけん
※5と同じ歌である。

□「わらび」ほなかの如きものなり。芽出しには食用すべきなり。其間を「さわらび」と云ふ也。早(ルビ、さ)は、やわらかきに云ふなり。「わさ」など云ふなり。「さわらび」は「わさわらび」の略と云ふ事のよしなり。又「さゆり」の「さ」とはちがふべし。春興にもてはやす故に一の題となるなり。
「紫塵漱(※別字で代用。どん、おんなへん)蕨」、「朗詠」にあり。帽子のもやもやとしたるものをかぶる故に、塵と見立てたり。さて春日野の若紫、「伊勢物語」にあり。「古今」にもあるなり。春日野に紫といふ草あれば、其紫がはへる春日野故に「春日野の若紫」と云ふなり。今は紫はあまり人が知ぬ也。御当代の初より七十年程前までは、七條の野あたりには紫を多く作りし事あるやうに考へ、課せたることもあるなり。
紫草の根を打砕きて染めるが紫色なり。色は第一の妙なるなり。草には妙なきなり。初わらびにとりきたるは、蕨の色にかりて来たるなり。手ぎれいに云はんとて借るなり。
○わらびは、ほなかのようなものだ。芽の出る頃には食用することができるものである。其の(食べられる)間を「さわらび」と言う。「早(ルビ、さ)」はやわらかい時に言うのだ。「わさ」などと言う。「さわらび」は「わさ・わらび」の略と言うことが由来である。又「さゆり」の「さ」とは違うだろう。春の興(をそそるものとして)もてはやすから一つの題となるのである。
「紫塵漱(※別字で代用。どん、おんなへん)蕨」という句が「和漢朗詠集」にある。帽子のもやもやとしたものをかぶるためにこれを塵と見立てたものだ。さて春日野の若紫は、「伊勢物語」にあり、「古今」にもある。春日野に紫という草があるので其の紫が生える春日野だから「春日野の若紫」と言うのである。今は「紫」はあまり人が知らない。御当代(御当代は徳川氏の世)の初め(頃)から七十年程前までは、七條の野あたりには、紫(草)を多く作った事があるように考えて、課せた(※歌会の題として課した、の意か。)こともあるのである。紫草の根を打砕いて染めるのが紫色である。(この)色は第一の妙なるものである。草そのものにはすぐれたところはない。初蕨に取ってきたのは、蕨の色(の形容)にかりて来たのだ。手ぎれいに言おうと思って借りたのである。
□紫色を「ゆかりの色」といふなり。何故ぞと云ふこと、しかとせねどもうつりやすき色なり。ぢきにひつゝき合ふなり。それ故「ゆかり」と云ふか。
「たがゆかり」を便にして、何々を縁にしてきたか、「ゆかり」がありてぞ、と云也。「いせ物語」に「春日野の若紫のすり衣しのぶのみだれ限知られず」と也。しのんで居られぬ、なつかしいと也。紫をもつて狩衣一ぱいに忍草を摺るなり。今いふ小紋形の如し。しのぶずりは、よぢれかける糸なり。もぢれるが、しのぶずり、もぢれる紋なり。両方に引かけ合ふ故に、もぢれ合ふなり。
「たがゆかりより」、「古のしのぶもぢずり」と云ふうた人の縁からはへたるかなどと云意を帯びて見るべし。
○紫色をゆかりの色と言う。なぜそのように言う(のかという)ことは、はっきりしないけれども、うつりやすい(変色しやすい)色である。直にひっつき合う。そのために「ゆかり」と言うか。
「たがゆかり」(という言葉)をつてにして「何々を縁にしてきたがゆかりかありてぞ」(何々を縁にして来た。誰のゆかりがあってか)と言うのである。『伊勢物語』に「春日野の若紫のすり衣しのぶのみだれ限知られず」とある。「しのんで居られない、なつかしい」というのである。紫で狩衣一杯に忍草を摺るのである。今で言う小紋型のようなものだ。しのぶずりは、よじれかける糸だ。もじってあるのが、しのぶずりをもじった紋である。両方に引かけ合うためにもじれ合うのである。
(掲出歌の四句めの)「たがゆかり」から古の「しのぶもぢずり」と言った歌人の縁から(草が)生えたのか、などという意味を帯びて(いると)見るとよいだろう。 ※8.26訳を少し直した。

『前川佐重郎歌集』を読む

2017年01月07日 | 現代短歌 文学 文化
何気なく頭の後に置いてある本を手に取ってみると、かーんと冷えた冬の夜気にふさわしい緊張感が、作品には漂っているように思われて、よし明日の朝はこれについて書こうと決めた。
『前川佐重郎歌集』には、1997年刊の第一歌集『彗星紀』全篇と、2002年刊の『天球論』の抄録が収められている。

冬雨の夜にながるる内ふかく群がるまなこ洗はれてゆく

「無言」と題した歌集巻頭の一連十一首の冒頭から。一首目。雨が「ながるる」というのは、地面や屋根の上をたくさん降った雨が伝い流れるイメージだ。「内ふかく群がるまなこ」というのは、何だろうか。これをそのまま他人のまなざしと言ってもいいし、自意識の分裂したもの、自己批評の刃のようなもの、と捉えてもいいだろう。眼は複数あるのだ。しかし、やはりここは他者、たとえば、昼のうち大勢の人と交わって今一人になって内観しているのだと読む。

私はまるで魂のみそぎをするかのように、流れる冬の雨の音を聞いている。今たまたま「みそぎ」という言葉を使ったが、ほとんど無意識のうちに、日本人の感性の祖型のようなもの、原型的なものが、一首めからせり出していることに驚く。おそらく作者自身そんなことを考えもしなかっただろう。そうして、「冬雨の夜にながるる内ふかく」と言う時に、二句目の「夜にながるる」がそこで切れずに、「ながるる」という言葉が、「内」にも掛かって「ながるる内」というように読めるところが和歌的であり、同時にそれが冬雨の景色を一気に〈冬雨のながるる内面=内部〉という暗喩に転換させていることに気付かせられる。続く二首目。

わが内に吹き込みやがて立ち去れる風に置かれし眼差ひとつ

 「風に置かれし眼差ひとつ」というのは、「群がるまなこ」のうちのひとつが、わたくしを問い質し、または責め、追及してやまなかった、ということだろう。三首目。

竪穴のしづけきやみに堕ちゆくは一本の髪 こころ騒ぎぬ

 ここで急に「竪穴」が出て来るあたり、どうしても作者の父親の佐美雄の歌に出てくる押入のことなどを連想してしまう。場所的なものへの感じ方が似ているのかもしれない。この竪穴は井戸だろうか。水を汲もうとして、髪の毛を一本落としてしまったというのだ。それは、汚してはならないものをよごしてしまった罪の感覚だろう。これも、清浄さをもとめる点において、潔癖な作者の感性のかたちをあらわに見せている歌である。四首目。

はじまりはシャツより白く羞みて山茶花の冬かさなりて落つ
  ※「羞」に「はにか」と振り仮名。

 この歌も、自然の景色を内面の喩へと変換する手法が用いられている。たぶんそれは、日常から詩に向うために必然的に要請されているので、「はじまり」は何のはじまりなのか、手がかりはない。もしかしたら、山茶花の咲き始めなのかもしれない。最初の一輪は、どの木の花も恥じらっているようにみえる。でも、その八重の花弁は、咲いたと見る間に散ってしまったのだ。この一首はやや無理があると言うか、強引なところがあるので、それはどうしても一連の難解な印象につながっている。

ひたひたとあゆみのごとき冬の雨僧侶と盗賊ゆきかふみれば

 この歌も難解なようだが、案外「あゆみのごとき」にヒントがあるのかもしれない。つまり、雨音が「僧侶と盗賊」が行き交う足音のように聞こえる、そのように聞きなしていると読むのである。しかし、これは、「ゆきかふ(と)みれば」と「と」を補った解釈なので、やはりここは「僧侶」や「盗賊」に見立てられるような実社会の現実の人々を想定して読むといいのだろう。「僧侶」は林達夫のような知識人かもしれないし、吉岡実の詩に出てくるような破戒坊主かもしれない。「盗賊」にあたる人々は、合法的なのも非合法的なのも含めいろいろとイメージできる。この時の作者は日本放送協会の職員である。もうひとつの解釈の線は、単純に上の句が、連想的に下句を呼び出したとみるものである。しかし、それはないだろう。

角砂糖崩るる速さながめつつわれ澄みて聴くものの跫音

 「ものの跫音」は、やはり世情の物音と解釈してよいだろう。と言うより前の歌からの連想で、そういう想念の所に落着いたということだろう。「われ澄みて聴く」は歌僧西行以来の感じ方で、「澄む」ということは、ひとつの文化的な価値であるとともに、ひとりの時を黙想する作者の求めるものであるのだ。




地域再生のために 新書斜め読み

2017年01月05日 | 暮らし
 箱根駅伝は、青山学院大学の優勝となったが、駅伝で勝った学校はその年の受験生の数が増えるのだそうだ。直前の模試の偏差値で志望校を決めたり、話題性で何となく受けてみようかと思うのは志願者の自由だが、有名でなくても、偏差値が低くても学生の教育に熱心に取り組んでいる大学はたくさんある。そういう静かに見えないところで営々と行われている努力というものを、私は日本の教育に携わる人々の良心の在りかを示すものとして、大切に思っている。

私は文学一方でやって来た人間ではあるが、昨年は多くの新書類を読んで経済・社会のことを少しばかり勉強してみた。そうして気がついたことがある。今後の日本社会をどうしていったらいいのかということについて、聞くに値する提言や、方策を提示している識者や専門家は、この国に結構たくさんいるのに、それが政策なり行政の施策なりに、うまく掬い上げられていないということだ。せっかくの知恵や創意というものを、宝の持ち腐れにしている。これは、「もったいない」。

 新しい話題を追いかけるのに急な人たちは、何年か前に出版された良書をばかにしないで、落ち着いて読み返してみるといいと私は思う。たとえば、

神野直彦『地域再生の経済学』中公新書

などはどうだろうか。第五章には、地方自治体が自己決定権を取り戻し、歳出入のフリーハンドを獲得することが必要だと書いてある。これを本当にやれれば、山積する諸問題が理想的に解決し、無理に経済成長しなくても人々の暮らしは質的に向上するだろうと私は思う。

 牧野知弘『空き家問題』祥伝社新書

には、都市の宅地の問題の基本が相続の話などもからめながらわかりやすく説明されている。類書は多いが、私はこれを先に手にしたのだった。これを読んだ後に、

 早川和夫『居住福祉』岩波新書

を読めば、政治や行政が何をしなくてはならないかが、わかる。それから、農業に関しては、

神門善久『日本農業への正しい絶望法』新潮新書

が秀逸だ。「平成検地」をして、農地とそうでない土地との見分けをしっかり行い、土地利用に関する情報公開を徹底せよ、と言っている。

 要するに、地方都市とその近郊の土地利用の在り方を抜本的に洗い直し、見直せば、日本の土地を持たない若者たちの負担は軽減され、また、将来世代によりよい生活環境を残していくことができる。少子高齢化の問題の解決や、地方の活性化につながる。

これに、私はその所論に全面的に賛成ではないが、

金子勝『資本主義の克服 「共有論」で社会を変える』集英社新書

のような本を叩き台にして、いろいろな立場から議論を重ねていけばいいのではないだろうかと思う。

あとは防災に関して出された多くの新書の中に、立ち読み程度なので書名はあげないが、町づくりについての提言を含めたいいものがたくさんある。





短歌と日本語による〈私〉の語りについて 1

2017年01月01日 | 現代短歌 文学 文化
一太郎ファイルの復刻。数年前に手刷りの冊子として数十部作って知人に配布したもの。当時、今井恵子さんが「和文脈」というようなことをおっしゃっていて、そういうコンステレーション(共振)がおもしろかった。

はじめに この冊子は、この五年間ほどの間に私が取り組んできた研究の中身を知人や職場の皆さんに知ってもらおうと思って編集したものである。Ⅰ章の文章は、短歌結社誌「未来」に「読みへの通路」と題して毎回一ページ五十回ほど連載した文章の後半を整理したものである。Ⅱ章には、短歌の総合誌に掲載した「アララギ」系の歌人についての短文を集めてみた。Ⅲ章には、最近取り組み始めた近世和歌に関する文章を入れた。

目次
  Ⅰ
小林秀雄の「写生」理解 2
高安国世・リルケと「実相観入」 4
経験に依拠する仕方について 6
描写と説明について 9 
  ①自己分析のてだて
  ②「~のだ」による私語り
陳述について 14
  ①「がある」と「である」
  ②日本語による陳述とは

 Ⅰ
小林秀雄の「写生」理解

 小林秀雄に『考えるヒント』という著書がある。その中で斎藤茂吉の写生論について小林は、空海からベリンスキイまでさかのぼって引用しながら、茂吉の言う「写生」は、〈観〉の部分を含んでいるのだ、つまり、ものを見る時の態度(ものの見方)の問題を含んでしまっているのだと言っている。だから、「自然自己一元の生を写す」という茂吉の「実相観入」論は、西洋の客観主義的、科学的なリアリズムとは別物である、というのだ。われわれが子規以来の「写生」論を整理しようとして字句にこだわり始めると、ひどく込み入ったことになってしまう。その点、小林秀雄の右の理解を常に念頭に置いて「写生」をめぐる議論を見てみるならば、根底の部分をしっかりとつかまえているので、時間を無駄にしないで済むのではないかと思う。
 桶谷秀昭の『永遠と亡びゆくもの』という論集の冒頭に、「虚相について」という文章があり、二葉亭四迷の『小説総論』の言葉、「模写といへることは実相を仮りて虚相を写し出すといふことなり。」という有名な一節が引かれている。二葉亭の言葉は、ロシアの思想家ベリンスキイの「芸術の理念」を下敷としているのだが、細かい説明は抜きにして、右の言葉を字義どおり受け取るなら、「模写」の目標は「虚相」を写すことにあるのだから、桶谷によれば、「つまり、レアリズムという文学方法だか表現の結果だかが、事物の模写を生命としないということである」ということになる。これは、俗流の「リアリズム」理解に対する批判を含む言葉なのであるが、このようにとらえてしまえば、リアリズムというものも随分風通しの良いものに感じられることだろう。桶谷は言う。「(略)そのレアルな描写が生きるのは、作家が観察し、選択した事物それ自体のもつ力ではなくて、作家がそれらに付加した情熱の力によってである。」
 この言葉を、先述の小林秀雄がとらえた茂吉「写生」論と突き合わせてみると、桶谷の論は、小林の論とほとんど重なっていることがわかるだろう。ものを見る時に、作家が付加する「情熱の力」には、当然〈観〉の要素が含まれていると見なければならない。つまり、いやおうなく倫理的な傾きを持つことになる。読者はここで、小林秀雄の「写生」論の射程に驚くのではないだろうか。
 さて、桶谷は同じ論文で次のように書く。「二葉亭の『虚相』がいかにも混乱した、あいまいな概念であったにせよ、彼がその言葉にこめた想いは、生きた、現実的な本能に近い倫理感覚であり、それに強いられたかぎり、二葉亭の『模写』による文章の言葉は生きたのである。」
ここで桶谷の言う「倫理感覚」というのは、「生活という他者」にぶつかることによって、「鋭敏な自意識の果て知らぬ遊戯」に堕する「自己欺瞞」から抜け出そうとする意識の有り様をさしている。この、自意識という百年の課題は、何周もめぐって今再び若い歌人たちの問題になっているように私には思われる。もちろん、問題は「鋭敏な自意識の果て知らぬ遊戯」が「自己欺瞞」であるなどとは、簡単に言えないところにある。

高安国世・リルケと「実相観入」

 前回の話題を続ける。ちょうど水沢遥子さんの『高安国世ノート』という本が出たばかりだ。昭和三一年の「短歌研究」七月号で高安国世が、手塚富雄、森田たま、清水基吉と座談をしていて、こんなことを言っている。
 「リルケという詩人は自己を捨てるというか、主観と客観の融合というものを目指してやつたように思うんですね。だから方法としては斎藤茂吉の実相観入というものと一脈相通じると思うんですがね。」
 目からうろこが落ちるような発言というのは、こういうものを言うのだろう。いろいろなことが一度に了解できる。日本人でリルケが好きな人が多いわけもわかるし、高安国世のリルケや茂吉の読み方もわかる。同じ場で高安はこんなことも述べている。
「向うの人は個人が閉ざされていてね、そういうところでリルケなんかも孤独を感じて、そこから抜け出そうとしたわけでしよう。」
「(略)知性への追及の果てに西洋文明は一つのゆき詰りに来てると思うんですよ。主観と客観との分裂が現代の悩みになつてきてるんで、東洋を見直す気持があるんでしようね。」
 茂吉の方は、周囲に自然があふれた日本的風土の中で「実相観入」と言った。そのことと、西欧の伝統の中で近代人として悩んだ果てにリルケが選び取った方向が、逆の向きから出会いながら、たまたま重なって見えている。それを高安国世という大知識人が、双方の違いを十分に認識しながら言った言葉が右に引いたようなものとなった、ということではないかと思う。だから、この認識は高安国世の内在化した西洋の知の問題である。繰り返しになるが、水沢さんの本には、高安国世の次のような言葉が引用されている。
 「僕はリルケが『物』の詩に赴くのは、近代的自意識を脱するため、新しい調和を回復しようがためと思いますが、日本の多くの美しい歌は近代的自我の形成を経ずして東洋的な自然との融和感を基礎としているように思うのです。」
                        (「或る不安について」一九五六年)
 たぶん問題は、われわれの「孤独」の質なのだろう。現代の日本人は、もしかしたら昭和三一年の頃よりもリルケの悩みを悩めるところにいるのかもしれない。むろん、あらゆる劣悪な条件を捨象したところで、仮にそう言ってみるのであるが。
 どうしてこんなことを書いているのかというと、それは「自然」を詠んだ歌のことを考えてみたいからである。現代のわれわれにとって自我や自意識といったものは、統一的なものと言うよりは、むしろ多くは細分化され、寸断されたものとして、たまさかに現象するだけのものとなっている。現代のわれわれの身体は、多くの場合に、無数の消費的な権力関係、ミシェル・フーコーの言ったような微細な権力が織り成す場として存在しているのにすぎない。そういうところで、新しい歌の作者にとって「自然」の歌はどのようにあらわれて来るのだろうか。再び逆のベクトルのところで、われわれがリルケのような方法と出会うことはないのだろうか。そのための導きの糸として高安国世の作品を読み直す道も開けているのではないだろうか、ということである。

経験に依拠する仕方について

 小川国夫に『漂泊視界』というタイトルの随筆集がある。その「後記」にこんなことが書いてある。
「最近、私は或る青年の小説原稿を読んだ。自伝的な作品で、かなりな出来栄えであった。ことに描写が優れていて感心したが、気に懸る点がないでもなかった。で、彼と会った時、次のように批評した。
――あなたの小説には美点もたくさんあるが、不徹底な印象が残る。それはなぜかと考えて見るに、あなたが自己形成の跡を追体験し人生の意味を問い直そうとしているのか、或は、自己の体験を基にして自分の外に作品を創り上げようとしているのか、ということが不明だからだ。勿論そのいずれかにスッパリ分けられるものではないが、自伝的な作品を書こうとする場合、この二つの行き方を両極として意識することは必要だと思う。」
 一九七二年、冬樹社刊の小豆色のクロース装の書物である。右の言葉は、「あなたの小説」というところを「あなたの歌」という言葉にかえて読めば、そのまま或る種の短歌作者にとってヒントとなる言葉ではないだろうか。
 さて、前者の例になるかどうかは知らないが、今ふっと思い浮かんだのが、東峰夫の自伝的な小説『ちゅらかあぎ』である。沖縄から出て来た青年が、製本屋に就職して安い給料で働くのだが、そのうちにいやになってやめてしまい、それでも気に入った本を読んだり、日雇いのような仕事をしながら、好きな文章を書くことはやめないでその日暮らしを続けている、というような内容の、わびしいけれど不思議とさばさばした自由な読後感が得られる作品である。
 後者の例としては、最近読んだものの中からあげると、河出文庫の田中小実昌初期短編集『上陸』がおもしろかった。作品には、いかさま占い師の手伝いをしたり、港湾労働者の仲間になって危うく戦争中の朝鮮半島まで連れて行かれそうになったりするその日暮らしの若者の生活が描かれているが、細部に作者が実際に体験したことが投影されていると感じる。でも、あまりにも内容が荒唐無稽なので、一篇が「ファルス」(坂口安吾)だということがすぐにわかる。ここでの作者は、いったん「私」を放り捨てているのである。 むろん小説の約束事と短歌の約束事は異なっている。
 小説における私性ということについて、江藤淳が『昭和の文人』の中で、はっとするようなことを書いていた。
 「テクストのなかの登場人物を三人称に置き、物語の時制を過去に置いて、テクストの外部に設けられた一定点から叙述をおこなうという技法こそ、西欧の物語話法の基本的な約束事にほかならない」が、日本の近代小説の実作者たちは、一貫してこの「西欧の物語話法を迂回し続けて来た」というのである。
 たとえば谷崎潤一郎の『細雪』において、作者はテクストの外部ではなく内部にいて、小説の登場人物の陰に身をひそめている。小説の登場人物は「三人称の仮面をつけた一人称」である。それは江藤によれば、日本語の物語の構造に由来するものなのである。
「それはやはり、秋聲や谷崎が、小説はいかに仮構であれ『嘘』ではなく、人間と人生についての『真実』を語らねばならず、しかも日本の作家である以上それを日本語で語らなければならないということを、よく心得ていたからであった。」というのである。
 ここで批評は、日本語の文法と統辞法に由来する、自己の体験について語ることの容易さと困難さに向き合うことを求めている。

描写と説明について 

  ①自己分析のてだて

 散文の理論を、短歌の分析や実作に役立てることはできないか。以下にもっとも簡便なかたちで、その一つを示す。これは私が短歌の作り方を人に教える時にやってみて、評判が良かったものである。
 散文の文章には、大きく分けて「描写」の文と「説明」の文がある。例文を示す。
 昨晩私はよく眠れなかった。
 それは次の日の会合が気になっていたからだ。
 この二つの文のはじめの方が「描写」で、あとの方が「説明」である。「説明」は、短歌に応用する場合には、「感慨」と言い換えてもよい。つまり、前者の一文が客観的だとしたら、後者の一文は主観的である。基本的にこのふたつのタイプの文章を織り混ぜて日本語の散文は書かれている。近代小説の典型とされる芥川龍之介の「羅生門」などにおいては、「描写」文が中心の段落と、「説明」文が中心の段落とが明確に区別して書かれている。
 文末の表現としては、前者が「~た」に代表され、後者が「~のだ、~のである」に代表される文法的な対照がある。
 これを「日本作文の会」では、作文教育の現場での応用がきくかたちで、理論化している。具体的には小学校の低学年までを「第一指導段階」として、その段階での「記述=叙述の指導」について、日本作文の会のテキストでは、次のような解説がなされている。
 〈そのときのものやことの姿とうごき、事実と事実関係、そのときのものやことのようす、他人のうごきやことば、自分の心理の内面のことをよくふりかえり、よく思い出しながら、これを「した、した」「しました、しました」「したのだった」「したのでした」といいおわる日本語の単語(述語)を選び配列しながら「文」をつくっていく、その「文」をかさねて、部分の文章をつくり、さらにすじのとおった全体の文章をつくっていく指導をする。
 ただし、文章の部分部分のところで、「ことわり」としてのみじかい説明を、そのつどそのつど、いれる必要があるときは、「です、ます、のです」「だ、である、なのである」といった「現在・未来形」を用いた「文」でかくことについての記述指導も、この段階ではしていく。〉
右の教師向け解説文のひとつめの段落が、「描写」文についてのもので、「ただし」以下の段落が、「説明(感慨)」文についてのものである。日本作文の会で「ことわり」と呼んでいるものと、私がこの小文で「説明」の文、または「感慨」を示す文と呼んでいるものはほぼ同じである。私はここではあまり厳密さをもとめる必要を認めない。ひとつの考え方として、おおざっぱでいいから、右の「描写」と「説明」という二つのタイプの「文」はちがうのだということを読者に認めてもらえれば、それでよい。
 さて、短歌の場合はどうなのかと言えば、すべて「描写」と「説明」のふたつに分けてしまうのは、粗雑にすぎるだろう。短歌では、純粋に客観的な「描写」文というのはほとんどなくて、大半の「描写」文が、「説明」的なニュアンスを持っていると言っていいだろう。にもかかわらず、二つのタイプの文の占める割合を比較することによって、ある作家の変遷や、一冊の作品集の傾向を最大公約数的につかむことはできる。また、自己分析にもこれを役立てることができるのである。

  ②「~のだ」による私語り

 岩波文庫の『西脇順三郎詩集』を例にとる。「私」を主語として「~のだ」で結ぶ典型的な〈説明〉文は、著名な第一詩集『ambarvaliaあむばるわりあ』(昭和八年刊)にほとんど出て来ない。ひとつ引用してみよう。
   雨
 南風は柔い女神をもたらした。
 青銅をぬらした、噴水をぬらした、
 ツバメの羽と黄金の毛をぬらした、
 潮をぬらし、砂をぬらし、魚をぬらした。 静かに寺院と風呂場と劇場をぬらした、 この静かな柔い女神の行列が
 私の舌をぬらした。
 この詩集の特徴は、右のような詩にあるということになっている。文末が「~た」からなる〈描写〉文の詩である。高校でまず教わるのが、冒頭の次の詩である。
   天気
 (覆された宝石)のやうな朝
 何人か戸口にて誰かとさゝやく
 それは神の生誕の日。」
 これは、若い人に詩についての先入見を与えるという意味では、なかなか影響が大きい詩なのだ。しかし、これを模範として詩を作るのは難しい。本格的に西欧語を習得した作者が、客観的な〈描写〉文を基本として詩を構成することは、自然ななりゆきである。この詩集には、難解な「失楽園」など、後年の作者の萌芽が見える詩が収められているのだが、そこに出てくる主語の「おれ」は、戦後の述懐の話法(おのれ語り)をもって書かれた詩と地続きである。それとて、後年の仮名のタイトルの『あむばるわりあ』(昭和二二年刊)の改作では、作者は「おれ」を取り去ってしまったかたちで整理したりしているから、この詩人にとっても、語りの主体のありようは、大きな課題だったことがわかる。しかし、その詩人が、第二詩集『旅人かへらず』を経て、『近代の寓話』以降、「私」を主語とした「~のだ」を多用する詩境に移って行った、ということのなかに、私は日本語の生理のようなものについての作者の自覚の深まりがあると思う。
   無常
 バルコニーの手すりによりかかる
 この悲しい歴史
 水仙の咲くこの目黒の山
 笹やぶの生えた赤土のくずれ。
 この真白い斜塔から眺めるのだ
 枯れ果てた庭園の芝生のプールの中に
 蓮華のような夕陽が濡れている。
 (略)
 饗宴は開かれ諸々の夫人の間に
 はさまれて博士たちは恋人のように
 しやがんで何事かしやべつていた。
 (略)
 やがてもうろうとなり
 女神の苦痛がやつて来たジッと
 していると吐きそうになる
 酒を呪う。
 (略)
 客はもう大方去つていた。
 とりのこされた今宵の運命と
 かすかにをどるとは
 無常を感ずるのだ
 いちはつのような女と
 (以下略)
 五行目の「この真白い斜塔から眺める」主体が、作者・「私」であることを読者は疑わないだろう。その結びは「~のだ」である。酒の女神と踊ることに「無常を感ずるのだ」という私語りとしてせり出してくるのが、日本語の〈説明〉文なのである。

陳述について 

  ①「がある」と「である」

 回り道になるが、先に「描写と説明について①自己分析のてだて」の節で言及した「ことわり」という用語の意義について、私なりに、ここでは和辻哲郎の言葉を引きながら理解を深めてみたいと思う。「ことわり」というのは、筆者が、提示された事実について、その「わけ」を説明する文章をそう呼ぶ。基本的に自分が「分か」っていることを、説明するのが「ことわり」の文章である。さて、
 「我々の国語によれば、理解を云ひ表はす語は『分かる』であり、理解せられた『こと』は『ことわり』であり、理解し易く話すのは、『ことを分けて話す』のである。(略)理解せられる以前にはそれはまだ分かつてはゐない。だから『わけ』は分かるべき構造を持つた統一である。(略)『分かる』のは統一の自覚である。従つて分離自身に本来の統一が現はれる。その明白な云ひ現はしが『である』である。SはPであると云はれるとき、SとPとに分けることが既に両者の本来の統一の自覚であるが故に、両者は『である』によつて結合せられるのである。」     (『人間の学としての倫理学』第二章、十四)
 これに対して、「がある」の場合は、右のようなことわりを必要としない。「がある」には、漢語の「有」が該当する。
 「(略)有るところのものとは手の前にあつて使へるものの謂に他ならぬ。(略)有の根底には必ず人間が見出される。金が有るとは人間が金を有つのであり、従つて金は所有物である。」                            (第一章、四)
 「例えば『Sがある』といふのはSについて陳述しつゝ人間がSを持つことを云ひ現はすのである。だから、陳述に於ては、人間の存在はすでに先立つて与へられてゐる。陳述とはこの存在をのべひろげて云ひ現はすことである。のべひろげるに当つてそれはさまざまの言葉に分けられ、さうしてその分けられた言葉が結合せられる。」 (第二章、十四)
つまり、「Sがある」という物事を、「SはPである」と「事(言)分け」することが、「わかる」ということなのだ。和辻は、「がある」を「である」と区別して思考を展開しながら、西洋の諸学を日本語で咀嚼してみせた。この「がある」と「である」という用語の区別は、現代の論理学の概説書でも触れられていることだ。和辻の説明から、私は文章論における〈描写〉と〈説明〉という用語の対立の構造を浮き彫りにしながら考えるヒントを得た。
・「陳述は、だから、人間存在を言葉に於て云ひ現はすときに、その存在の構造をそのまゝ映し取つてゐる。」
・「陳述とは人間の存在の表現に他ならなかった。然るに人間存在とは、間柄に於ける行為的連関である。」
・「『云ひ現はし』即ち陳述は根源的には間柄の表現である。(略)間柄の表現に於ては、身振りや動作の場合でさへも、その間柄がすでに先立つて与へられてゐる。」 ここで右の引用の「陳述」を、「書くこと」とか、「作歌行為」というように置き換えて読んでみる時、にわかに和辻哲郎の言っていることの意味が生動してくる。「間柄」というのは、和辻によれば「生ける動的な間であり、従つて自由な創造を意味する」ものである。
                                 (第一章、三)
文章も作品も、「間」において書かれ、発表される。それは間柄に於ける行為的連関であり、また、それを書いたり、発表したりする話者の「存在の構造を」「そのまゝ」「映し取つてゐる」。この「映し取」るという言い方が、なかなか魅力的ではないかと、私は思うのである。

  ②日本語による陳述とは

 前回の和辻哲郎の引用から、さらに一歩を進めて考えてみる。和辻によれば、「陳述は、だから、人間存在を言葉に於て云ひ現はすときに、その存在の構造をそのまゝ映し取つてゐる」のである。これを少々強引にだが、以下に敷延してみよう。
 ここでいう「陳述」を、近代短歌における「写生」という用語に置き換えて考えてみたい。われわれが今ここで、花なら花を「写生」するとしよう。そこでは「写生」をすること自体が、すなわち「われわれ」の「その存在の構造をそのまゝ映し取つてゐる」ことになっているのだ。つまり、「描く」ことによって、「間柄に於ける行為的連関である」私の姿は、無条件にあらわれてしまうということなのだ。それも日本語という母語を用いて、同じ社会の圏内に住む者として、そうあらしめられるのだ。もちろんこの先に、どう描くのか、という問題があらわれて来るのだが、それにしても、描いてしまった時点で、それが、すでに「間柄の表現」として成立しているという認識は、「個性」的なものを重んずる近代的なものの言い方に対して、なにほどかの批評をはらむはずである。もっとも右のような言語・社会の理解の仕方は、和辻の『倫理学』が人間の本源的な善意の成立への信頼に立脚するものであることに由来するように私には思われるが、そのことから必然的に、和辻は楽観的にすぎると言う見方も出て来るのかもしれない。ただ、もう少し砕いて言うと、「陳述」の際に、われわれはもっと「陳述」そのものを信じていいのだ。私は和辻の哲学をそんなふうに、この日本社会に生きる者への励ましとして読むことを薦めたい。
 さらに和辻の言ったことを思い出して考えてみよう。われわれ(日本語を母語として用いる者の)の、モノの述べ方(認識のありかた)には、「がある」と「である」がある、と和辻は言っていた。大きく言うと、短歌作品においても、
 S(主題となっているもの)がある。
という歌と
 Sは、P(述語的要素)である。
という歌との区別が可能であるように私は思う。この作者には「がある」の作品が多いな、とか、この作者は「である」ばかり言っているな、というように当たりをつけることから始まって、自分自身の作品の自己批評に、この考え方が応用できはしないかと私は思うのである。一つのS(歌にしたいもの)を、「それがありましたよ」と言う歌と、一つのSを、「そのSを私はこういうものとしてとらえますよ」と言うこととは、感情的存在である人間にとって、同時的で切り離せないものなのだが、これを文として言いあらわす場合には、この二つの間には、大きな構造的な違いがある。そうして、日本語の大きな特徴は、もちろんイットを用いることなく、「Sがある」と言い得るところにあるのであって、たとえば日本語の文芸の世界における最大の「S」は、季語であろう。これに歌枕なども加えてみてもいいかもしれないが、それはさておき、或る季題「S」を「言分け」「事分け」るのが、有季俳句である。そこで「SはPである」と「ヒネる」ことになる。何よりもまず、季節の王様とお姫様Sが、先立って大切なものなのであって、それに凡百の人間が何かを付け加えるのは、恐れ多いことだ。僭越なはからいごとだ。だから、自分を卑下して「ヒネ」るなどと言ってみせる。その根底には季節への敬意があるのだ。