以下は、「美志」の復刊一号(2011年1月)にのせたもの。
草森紳一の『随筆 本が崩れる』(文春新書)という書物は無類におもしろい。私は愛書家もしくは蔵書家の苦労話を読むのが結構好きだ。本とどう暮らしているか、ということに、その人の仕事や性格の質があらわれているからである。今の時代は、読書家のブログをチェックしたら相当におもしろい文章が見られる。
でも、私の見るところネット上の書き手の姿勢は、概して親切すぎ、サービス精神が旺盛にすぎる。それが、私などにはかえってめんどうに感じられる。草森紳一の文章がいいのは、妙に親切そうな口ぶりをしない点だ。草森は、自分の生活のどうにもならない成り行きを、どこまでも我が儘に描きだしている。誰が何と言おうと、自分はこのやり方で貫くほかはないという意地の張り方。その滑稽さを、書き手はよくよく自覚しながら文章をつづっている。
床に積んだ本の塔が倒れて風呂場の中に閉じ込められ、どうやったら脱出できるかをあれこれ思案して、まあいい、一風呂浴びてから考えよう、と思って取りあえず風呂につかることにする、というくだりなど本当にばかばかしいのだが、延々と私事をのべていく文章が、一種のリズムを持っていて、駄目なことが一種の芸になっている。
続いて筆者は何となく秋田に旅行することになり、平田篤胤の墓に詣でるのであるが、その五百何十段あるという石段を上るのに、こちらも読みながらいっしょに息をきらす。本がいっぱいつまった荷物を置く場所を教えてくれる店の人の親切がうれしく、階段のぼりの途中耳に入るウグイスの声がうれしく、老躯に鞭打って上がり終えてからする仮眠が、訳もなくうれしい。要するに、スタイルがあるから読ませることができるのである。
その草森の『歳三の写真』(昭和五三年刊・新人物往来社刊)という本を先日手に入れた。七百円也。インクの文字も薄くなっていて、あまり状態のいい本ではないが、私のように買う者がいそうなタイトルではある。巻末に「歳三の写真」ノートという文章がある。新選組の土方歳三には、『豊玉発句集』という句集があり、それについてこう書いてある。
「 春ははるきのふの雪も今日は解
土方歳三
ばかばかしいような句だが、ほかほかしてよい。(略)
この世の物ごとは、ありがたいことにすべて曖昧であり、その人の見たいように見えてくるところがある。死の意識といったところで、すべて人間は死ぬのであってみれば、なにも特殊なことではなく、意識などというものは、なによりも予定調和の活動でしかない。時代が時代であって見れば、死を意識することなどは、なんの不思議もでもない。清川八郎の率いる浪士隊にくわわって京に向かうということは、当然、死の覚悟でのひとつ位はあるのだから、句の中にその意識が見え隠れていても、驚くにたらない。
手のひらを硯にやせん春の山
見ようによっては、どのようにも見えてくる句である。これも、ほかほかした句である。心に余裕のない時には、生れない情動であるが、歳三の句は、総じて素朴なまでにこの余裕がある。」
土方の句について、「ほかほかしてよい」という言葉が出る。とても敵わないなと思えるようなこういう文章を見つけるのが、私は好きである。
草森紳一の『随筆 本が崩れる』(文春新書)という書物は無類におもしろい。私は愛書家もしくは蔵書家の苦労話を読むのが結構好きだ。本とどう暮らしているか、ということに、その人の仕事や性格の質があらわれているからである。今の時代は、読書家のブログをチェックしたら相当におもしろい文章が見られる。
でも、私の見るところネット上の書き手の姿勢は、概して親切すぎ、サービス精神が旺盛にすぎる。それが、私などにはかえってめんどうに感じられる。草森紳一の文章がいいのは、妙に親切そうな口ぶりをしない点だ。草森は、自分の生活のどうにもならない成り行きを、どこまでも我が儘に描きだしている。誰が何と言おうと、自分はこのやり方で貫くほかはないという意地の張り方。その滑稽さを、書き手はよくよく自覚しながら文章をつづっている。
床に積んだ本の塔が倒れて風呂場の中に閉じ込められ、どうやったら脱出できるかをあれこれ思案して、まあいい、一風呂浴びてから考えよう、と思って取りあえず風呂につかることにする、というくだりなど本当にばかばかしいのだが、延々と私事をのべていく文章が、一種のリズムを持っていて、駄目なことが一種の芸になっている。
続いて筆者は何となく秋田に旅行することになり、平田篤胤の墓に詣でるのであるが、その五百何十段あるという石段を上るのに、こちらも読みながらいっしょに息をきらす。本がいっぱいつまった荷物を置く場所を教えてくれる店の人の親切がうれしく、階段のぼりの途中耳に入るウグイスの声がうれしく、老躯に鞭打って上がり終えてからする仮眠が、訳もなくうれしい。要するに、スタイルがあるから読ませることができるのである。
その草森の『歳三の写真』(昭和五三年刊・新人物往来社刊)という本を先日手に入れた。七百円也。インクの文字も薄くなっていて、あまり状態のいい本ではないが、私のように買う者がいそうなタイトルではある。巻末に「歳三の写真」ノートという文章がある。新選組の土方歳三には、『豊玉発句集』という句集があり、それについてこう書いてある。
「 春ははるきのふの雪も今日は解
土方歳三
ばかばかしいような句だが、ほかほかしてよい。(略)
この世の物ごとは、ありがたいことにすべて曖昧であり、その人の見たいように見えてくるところがある。死の意識といったところで、すべて人間は死ぬのであってみれば、なにも特殊なことではなく、意識などというものは、なによりも予定調和の活動でしかない。時代が時代であって見れば、死を意識することなどは、なんの不思議もでもない。清川八郎の率いる浪士隊にくわわって京に向かうということは、当然、死の覚悟でのひとつ位はあるのだから、句の中にその意識が見え隠れていても、驚くにたらない。
手のひらを硯にやせん春の山
見ようによっては、どのようにも見えてくる句である。これも、ほかほかした句である。心に余裕のない時には、生れない情動であるが、歳三の句は、総じて素朴なまでにこの余裕がある。」
土方の句について、「ほかほかしてよい」という言葉が出る。とても敵わないなと思えるようなこういう文章を見つけるのが、私は好きである。