さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

『3653日目』

2021年03月08日 | 現代短歌
 今月の「うた新聞」が届いた。吉川宏志が、巻頭評論で十年という言葉で震災と原発事故の問題に区切りをつけてしまおうとする動きに警戒したいと述べている。確かにそうかもしれない。この十年ほど、虚偽の言論が世間を堂々と押し通るという事例が多くありすぎた。
 以下に震災十年目の区切りということで刊行された〈塔短歌会・東北〉震災詠の記録という副題のつけられた『3653日目』という本についてコメントしたい。

  水が欲し 死にし子供の泥の顔を舐めて来清むるその母のため
          柿沼寿子『東日本大震災の歌 合同歌集』より

 読んだ瞬間に涙が噴き出すような気がする歌で、こういう直接的な歌の持っている意味は消えない。その一方で、次のような歌に私は根源的な疑義の提示というものを読み取る。

  復興を加速させてくその先に何があるのか幸福、なのか?   
          井上雅史
  ラジオから追悼曲ばかり流れてるおわりに向かうこの国だから
          同

 これは復興に尽力している人たちに文句を言っているのではないのだ。詩歌は最大公約数的な意見を代弁するためのものではない。どうして「おわりに向かうこの国だから」と言えるのか?それは、「これだけの被害とその後の廃炉作業の困難を見ながら、どうして原発を再開できるのだろうか?」というような思いを噛みしめているうちに発せられた言葉であるだろう。希望を語る言葉ばかりが行政やマスコミの示すものとして飛び交う。しかし、絶望を語る言葉の方が、よほど人の心に届くということはある。それが詩歌の存在理由というものだ。

本集には、現実を厳しく静かに見つめる立場で書かれた言葉がみっしりと詰まっている。

 本当は行くのが辛いと言ひつつも横顔美しき語り部タクシー
          大沼智惠子

 「災害の映像が流れます」的な注意書きなく映画は続く
          逢坂みずき

こういう人の心の持つ痛みに触れた歌を共有することを通してしか実現できない世界というものはある。

  分かちあふ水も震へてありし日のまたそれぞれの三月を行く
          小林真代
 
これは震災の三年後の歌。被災地の人にとって、ずっと三月はこのようなものであり続けるのだろう。でもこの歌には、何か明るさがある。三句目の「の」がやや落ち着かないのだけれども、まさにこの歌の調べのように宙吊り感を残したまま、「またそれぞれの三月を行く」と続いてゆく生活のリアルというものが示されているのだ。

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