「 今日のように、伝達の手段が異様に拡大されると、美を粧った「もの」(※原文では傍点)は量産され、消費される。だがそこには、何ら、激しい変化はみられない。感覚は麻痺され、直観力は萎える。それはちょうど、東野芳明氏がある共感をもって引かれた、中井正一の「前のめった」ような状態(略)とは正反対の、いわば、一種の仮死状態にあることを示している。 」
武満徹 『人生のエッセイ⑨武満徹』(日本図書センター2000年刊)より
こういう硬質な言葉に触れると、なにか生き生きとさせられるものがある。今度の江田さんの本は、ここで武満徹が言っているような「仮死状態」に対して、最後まで抗い続けた表現者たちのために捧げられたものである。
私も著者と同じく青年期から中年期、壮年期と呼んでいいような人生の重要な時間を現代短歌に長くかかわってきた。その間に本書で話題になっている岡井隆の間近にいたこともあるし、結社誌「未来」の編集をめぐるやり取りを経てやがて疎遠になりはしたが、長く岡井隆の背中を見ながら過ごしてきた。「前衛短歌」についても多少は著者と等しい問題関心を抱いている。けれども、著者ほどに自分の問題関心を深く掘り下げ続ける情熱を持つことができなかった。著者の「詩人」としての岡井隆像を構築しようとするまっすぐな論に対しては、あらためて敬意を覚えるものである。それに、この本は岡井隆のことだけを書いた本ではない。長年のこだわりの対象である山中千恵子そのほかについての歌人論も集成されている充実した一冊なのだ。
まず「はじめに」の文章。これが明快に本書を刊行する意図を宣している。小林秀雄の芭蕉についての言葉からはじめて玉城徹と山中千恵子の論作の存在に触れながら、「歌人が今求めるべきなのは、短歌の表現と批評への過剰な精神を内在したプロ意識ではないでしょうか。」と述べている。
続けて岡井隆の原子炉についての一連の創作に触れた論文、「原発と前衛」が示される。著者は岡井隆の一番厄介な原発についての作品、思想的には吉本隆明の『反核異論』に依拠した作品を生んでゆく筋道について、単なる岡井隆の立場擁護論ではなく、また否定論でもなく、黒澤明の映画『夢』第六話「赤富士」への言及からおもむろに入ってゆく。岡井隆には有名な
原子炉の火ともしごろを魔女ひとり膝に抑へてたのしむわれは 『鵞卵亭』(一九七五年)
の一首がある。福島の原発事故のずっと以前の科学技術への楽観的な信頼を抱くことができたこの時代の歌にはじまって、岡井隆は『ウランと白鳥』(一九九八年)のほの暗い世界にまで踏み出してゆく。原子力発電所を美化することを期待した当局の意図のもとになされた招待に乗りながら、実際に出て来た作品は、人間と原子力との性愛関係にも似た危うい妖しい関わり合いを「レダと白鳥」の神話に暗喩的に重ねながら、不安と陶酔と危機的な緊張感にあふれた怪作に仕上がっており、単なる原子力賛美の歌ではなかった。
原発事故の後では、岡井は次のような歌も作った。
原発はむしろ被害者、ではないか小さな声で擁護してみた
これは先日の株主訴訟の判決などと思い合せてみるなら、その含意するところがわかるのではないか。これは批判を覚悟のうえでのひとつの意見表明というものである。江田はさすがに丁寧な読者だから、こうした一連の発言の後での岡井の逡巡を記す作品も引用している。
三・一一のすぐあとに「原発を魔女扱ひしたくない」といふごく個人的な意見を公表した、「彼女もまた被災者なのではないか」と。すぐになんだか生きづらくなつた。
『ヘイ龍 カム・ヒヤといふ声がする(まつ暗だぜつていふ声が添ふ)』二〇一三年
この問題をめぐって岡井がまるで鉄面皮であるかのように悪しざまに一方的に切り棄てる批評に対して、わざわざこういう場面であえて異論を唱えて傷つく岡井隆の姿をとらえている。わざわざ火中の栗を拾いに行った岡井を論ずること自体が、同様な危ういところに論者を押し出すわけで、この問題はなかなか書きにくい。それをあえてする著者の論の展開の仕方に感心する。
私がここで紹介したいのは、この論文のなかにある次の文章である。
「短歌創作(文学表現)が、果たして近代主義を超克できるのかどうか。私はそれを、今ここにある創作のアポリアとして、岡井短歌の分析と併行して見る必要があると思っている。」
ここに著者が岡井作品を批評するための基軸を据えようとしている点に、私は本書を通貫する問題意識として提示されている普遍的なものへの意志、ここに著者が「はじめに」で述べた「過剰なもの」の力を見出す。
(※引用部分「今ここにある」に傍点)
この項つづく
武満徹 『人生のエッセイ⑨武満徹』(日本図書センター2000年刊)より
こういう硬質な言葉に触れると、なにか生き生きとさせられるものがある。今度の江田さんの本は、ここで武満徹が言っているような「仮死状態」に対して、最後まで抗い続けた表現者たちのために捧げられたものである。
私も著者と同じく青年期から中年期、壮年期と呼んでいいような人生の重要な時間を現代短歌に長くかかわってきた。その間に本書で話題になっている岡井隆の間近にいたこともあるし、結社誌「未来」の編集をめぐるやり取りを経てやがて疎遠になりはしたが、長く岡井隆の背中を見ながら過ごしてきた。「前衛短歌」についても多少は著者と等しい問題関心を抱いている。けれども、著者ほどに自分の問題関心を深く掘り下げ続ける情熱を持つことができなかった。著者の「詩人」としての岡井隆像を構築しようとするまっすぐな論に対しては、あらためて敬意を覚えるものである。それに、この本は岡井隆のことだけを書いた本ではない。長年のこだわりの対象である山中千恵子そのほかについての歌人論も集成されている充実した一冊なのだ。
まず「はじめに」の文章。これが明快に本書を刊行する意図を宣している。小林秀雄の芭蕉についての言葉からはじめて玉城徹と山中千恵子の論作の存在に触れながら、「歌人が今求めるべきなのは、短歌の表現と批評への過剰な精神を内在したプロ意識ではないでしょうか。」と述べている。
続けて岡井隆の原子炉についての一連の創作に触れた論文、「原発と前衛」が示される。著者は岡井隆の一番厄介な原発についての作品、思想的には吉本隆明の『反核異論』に依拠した作品を生んでゆく筋道について、単なる岡井隆の立場擁護論ではなく、また否定論でもなく、黒澤明の映画『夢』第六話「赤富士」への言及からおもむろに入ってゆく。岡井隆には有名な
原子炉の火ともしごろを魔女ひとり膝に抑へてたのしむわれは 『鵞卵亭』(一九七五年)
の一首がある。福島の原発事故のずっと以前の科学技術への楽観的な信頼を抱くことができたこの時代の歌にはじまって、岡井隆は『ウランと白鳥』(一九九八年)のほの暗い世界にまで踏み出してゆく。原子力発電所を美化することを期待した当局の意図のもとになされた招待に乗りながら、実際に出て来た作品は、人間と原子力との性愛関係にも似た危うい妖しい関わり合いを「レダと白鳥」の神話に暗喩的に重ねながら、不安と陶酔と危機的な緊張感にあふれた怪作に仕上がっており、単なる原子力賛美の歌ではなかった。
原発事故の後では、岡井は次のような歌も作った。
原発はむしろ被害者、ではないか小さな声で擁護してみた
これは先日の株主訴訟の判決などと思い合せてみるなら、その含意するところがわかるのではないか。これは批判を覚悟のうえでのひとつの意見表明というものである。江田はさすがに丁寧な読者だから、こうした一連の発言の後での岡井の逡巡を記す作品も引用している。
三・一一のすぐあとに「原発を魔女扱ひしたくない」といふごく個人的な意見を公表した、「彼女もまた被災者なのではないか」と。すぐになんだか生きづらくなつた。
『ヘイ龍 カム・ヒヤといふ声がする(まつ暗だぜつていふ声が添ふ)』二〇一三年
この問題をめぐって岡井がまるで鉄面皮であるかのように悪しざまに一方的に切り棄てる批評に対して、わざわざこういう場面であえて異論を唱えて傷つく岡井隆の姿をとらえている。わざわざ火中の栗を拾いに行った岡井を論ずること自体が、同様な危ういところに論者を押し出すわけで、この問題はなかなか書きにくい。それをあえてする著者の論の展開の仕方に感心する。
私がここで紹介したいのは、この論文のなかにある次の文章である。
「短歌創作(文学表現)が、果たして近代主義を超克できるのかどうか。私はそれを、今ここにある創作のアポリアとして、岡井短歌の分析と併行して見る必要があると思っている。」
ここに著者が岡井作品を批評するための基軸を据えようとしている点に、私は本書を通貫する問題意識として提示されている普遍的なものへの意志、ここに著者が「はじめに」で述べた「過剰なもの」の力を見出す。
(※引用部分「今ここにある」に傍点)
この項つづく