さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

江田浩司『前衛短歌論新攷』

2022年07月27日 | 現代短歌 文学 文化
「 今日のように、伝達の手段が異様に拡大されると、美を粧った「もの」(※原文では傍点)は量産され、消費される。だがそこには、何ら、激しい変化はみられない。感覚は麻痺され、直観力は萎える。それはちょうど、東野芳明氏がある共感をもって引かれた、中井正一の「前のめった」ような状態(略)とは正反対の、いわば、一種の仮死状態にあることを示している。 」
         武満徹 『人生のエッセイ⑨武満徹』(日本図書センター2000年刊)より

 こういう硬質な言葉に触れると、なにか生き生きとさせられるものがある。今度の江田さんの本は、ここで武満徹が言っているような「仮死状態」に対して、最後まで抗い続けた表現者たちのために捧げられたものである。

私も著者と同じく青年期から中年期、壮年期と呼んでいいような人生の重要な時間を現代短歌に長くかかわってきた。その間に本書で話題になっている岡井隆の間近にいたこともあるし、結社誌「未来」の編集をめぐるやり取りを経てやがて疎遠になりはしたが、長く岡井隆の背中を見ながら過ごしてきた。「前衛短歌」についても多少は著者と等しい問題関心を抱いている。けれども、著者ほどに自分の問題関心を深く掘り下げ続ける情熱を持つことができなかった。著者の「詩人」としての岡井隆像を構築しようとするまっすぐな論に対しては、あらためて敬意を覚えるものである。それに、この本は岡井隆のことだけを書いた本ではない。長年のこだわりの対象である山中千恵子そのほかについての歌人論も集成されている充実した一冊なのだ。

まず「はじめに」の文章。これが明快に本書を刊行する意図を宣している。小林秀雄の芭蕉についての言葉からはじめて玉城徹と山中千恵子の論作の存在に触れながら、「歌人が今求めるべきなのは、短歌の表現と批評への過剰な精神を内在したプロ意識ではないでしょうか。」と述べている。
続けて岡井隆の原子炉についての一連の創作に触れた論文、「原発と前衛」が示される。著者は岡井隆の一番厄介な原発についての作品、思想的には吉本隆明の『反核異論』に依拠した作品を生んでゆく筋道について、単なる岡井隆の立場擁護論ではなく、また否定論でもなく、黒澤明の映画『夢』第六話「赤富士」への言及からおもむろに入ってゆく。岡井隆には有名な

原子炉の火ともしごろを魔女ひとり膝に抑へてたのしむわれは 『鵞卵亭』(一九七五年)

の一首がある。福島の原発事故のずっと以前の科学技術への楽観的な信頼を抱くことができたこの時代の歌にはじまって、岡井隆は『ウランと白鳥』(一九九八年)のほの暗い世界にまで踏み出してゆく。原子力発電所を美化することを期待した当局の意図のもとになされた招待に乗りながら、実際に出て来た作品は、人間と原子力との性愛関係にも似た危うい妖しい関わり合いを「レダと白鳥」の神話に暗喩的に重ねながら、不安と陶酔と危機的な緊張感にあふれた怪作に仕上がっており、単なる原子力賛美の歌ではなかった。
 原発事故の後では、岡井は次のような歌も作った。

原発はむしろ被害者、ではないか小さな声で擁護してみた

これは先日の株主訴訟の判決などと思い合せてみるなら、その含意するところがわかるのではないか。これは批判を覚悟のうえでのひとつの意見表明というものである。江田はさすがに丁寧な読者だから、こうした一連の発言の後での岡井の逡巡を記す作品も引用している。

 三・一一のすぐあとに「原発を魔女扱ひしたくない」といふごく個人的な意見を公表した、「彼女もまた被災者なのではないか」と。すぐになんだか生きづらくなつた。
   『ヘイ龍 カム・ヒヤといふ声がする(まつ暗だぜつていふ声が添ふ)』二〇一三年

 この問題をめぐって岡井がまるで鉄面皮であるかのように悪しざまに一方的に切り棄てる批評に対して、わざわざこういう場面であえて異論を唱えて傷つく岡井隆の姿をとらえている。わざわざ火中の栗を拾いに行った岡井を論ずること自体が、同様な危ういところに論者を押し出すわけで、この問題はなかなか書きにくい。それをあえてする著者の論の展開の仕方に感心する。

 私がここで紹介したいのは、この論文のなかにある次の文章である。

「短歌創作(文学表現)が、果たして近代主義を超克できるのかどうか。私はそれを、今ここにある創作のアポリアとして、岡井短歌の分析と併行して見る必要があると思っている。」

ここに著者が岡井作品を批評するための基軸を据えようとしている点に、私は本書を通貫する問題意識として提示されている普遍的なものへの意志、ここに著者が「はじめに」で述べた「過剰なもの」の力を見出す。
                               (※引用部分「今ここにある」に傍点)  
この項つづく

志垣澄幸『鳥語降る』

2022年07月27日 | 現代短歌
遊ぶ子ら一人も見えぬ三納川ひねもすわれら遊びてゐしに  志垣澄幸

 時間の余裕があると、淡い味わいのある歌を何となく手に取って読んでみる気になる。『鳥語降る』いいタイトルである。作者は引き揚げと戦後の食糧難を知る世代である。子供の頃の川遊びの歌があって、「あとがき」に「まだ少年だった私は近辺の川や山野をかけめぐり、ひねもす遊びほうけていた。だがその体験がどれだけその後の生に彩りを添え、豊かにしてくれたことか。自然との昵懇な歳月は人を豊かにするというが、最近になってあらためて遊びほうけていた日々が貴重な体験であったことをしみじみと感じている。」とある。

 「人間が向き合わなければならないのは、政治や社会、時代や人生だが、もう一つ根源的なものとして自然があると思う。」と続けて書く。

これはごく当たり前のような言葉だが、今の時代はこういう伝統的な日本人の感性というものが、都市に集住する若者たちにはなかなか共有されにくくなっている。そもそも自然の事物を知らないうえに、たとえば子供たちの多くが虫を嫌悪することはたいへんなものである。教室に蜂や蜘蛛などの虫が入ってきたら、私はそれを紙やノートを使って上手に追い出すことができるが、虫の扱いを知らない者は大騒ぎをして飛びのいたり、すぐに殺そうとしたりする。こんな歌がある。

掌に囲ふ蛍の匂ひだしぬけによみがへりたり川の辺に来て

「てにかこう ほたるのにおい だしぬけに よみがえりたり かわのべにきて」と読む。ア行の音韻をみると「イ」音が三十一語音のなかで一〇個ある。つまり三分の一。助詞の「に」が数えてみると三つあって、『古今和歌集』の「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる」などイ音の効果的に響く歌と共通の音韻感覚を持つ。イ音の多い歌は、たいていさらりとして押しつけがましくないところがあって、それは作者の歌の特徴でもあるだろう。

短歌の時代が終てたるやうなさびしさに岡井隆の訃報を聞けり
 ※「短歌」に「うた」、「終」に「は」と振り仮名。

 この歌の前には自選五首として帯に印刷されている歌のうちの一つが置かれている。

ペストの世もスペイン風邪の世も照らし今宵は川の中にゐる月

 二首とも初句が一字字余りで、初句の字余りは「うたのじだいが〇」、「ぺすとのよも〇」というように一拍から半拍ほど息をついて感情の高ぶりを漏らす声調として私は読む。そのために続く二句を七五調のリズムとしてより強く感じ取りながら読むことになる。だから「終てたるやうなさびしさに」で小休止、「スペイン風邪の世も照らし」で小休止。二首は内容は異なるが声調的には同じなのであり、岡井隆の亡くなった世と、コロナの流行する世とは、ともに歌の「終てたるやうな」さびしさを同じ時代の事柄として感ずる作者の感慨を歌の調べとして提示するものになっているのである。志垣澄幸の一見すると平凡に見えるかもしれない淡い歌の持つ価値を一般読者のために細かく解説すると、こういうことになる。

空を見ることなくなりし少年らてのひらの中の世界のぞきて

触れ合へる幹は見えねど軋む音竹むらの中に折りをりひびく

戦後よく食べさせられし千切大根旨きものなり今にし食めば

白飯を食ひたけれども食へざりし戦後知る人も少なくなりぬ
 ※「白飯」に「ぎんしやり」と振り仮名。

寒中水泳の少年らの首川の面に数かぎりなく浮きてただよふ

もつれるやうにあまたの脚がうごめきて女子マラソンの一団がくる

 一首目の少年はスマホに夢中。白飯は、ぎんしゃり。今の若い世代にはこの言葉をしらない人もいるかもしれない。おしまいに引いた歌、宮崎県はマラソンの大会がしばしば催される地だ。