愛する人をうしないつつある時間のもの哀しい思い、それからとうとう居なくなってしまった後の思いを、妻恋の歌として一冊の中心に置いた歌集である。そのほかに青壮年の頃の自身を回顧する歌があり、父や血族のことに触れた歌もある。苦難の七十代を何とかしのいだと「あとがき」にある著者の老年の感慨が、平易にやすらかに詠まれている。三八〇首。あっという間に目を通せるのだが、これに近い境涯の読者なら、日日玩味するという別の読み方もあるだろう。
彼岸へと旅立ちし妻を夢に見つ笑まひて吾に駆け寄り来るを
妻の呼ぶ声に目覚めし夜の明けに夢か現かしばしとまどふ
※「現」に「うつつ」と振り仮名
「あとがき」の文章やカトリックへの入信、それから知恵の実を食べたアダムの表紙絵の選択からも察せられるが、亡くなった妻への罪の意識、つまり贖罪の感覚が、加齢とともに強まってくるということは、あったのだろうと思う。しかし、人は自分の過去を悔いつつも肯定するということが同時になければ生きられない。老年の沈降して行こうとする意識といかにたたかうか、生きることの意味をどのようにして人は見出すことが出来るのか。歌集をめくりながら、そのようなことを考えた。
降りしきる落ち葉の中に打ち仰ぐ樹間の空に永遠の青
窓近く蝋梅の咲くを今日知りぬわが生にまた喜び一つ
放歌もて過ごせる長き夜もありきわが浪々の身をもてあまし
筆者は「短歌往来」にすぐれた評論を連載している知恵者である。この知恵者というのは、優秀な読書人として世上の出来事や種々の文学芸術についての見識を持った人のことである。人間の情の部分を担う短歌とのかかわりを深めることによって、その見識が養われたということが、私には慕わしい。
幼年のわれに飛びきし雪礫わが曾祖父を憎める者ゆ
表では徳彦様裏では妾の子父の哀しき分裂も見き
夢いくつかなはず終はるわが人生思ひやるだに過去は切なし
わが流転ここに終はるかあらたまの常陸の国の空晴れ渡る
老いらくの身にまた春は巡り来て光の中に涅槃を慕ふ
もはや表現上の独創とか新境地を追求するというような野心は作者の心の中にはないだろう。けれども、書くことへの執心はもち続けてほしいと思う。そのうちの一つに作者の一族の物語もあってもいいかもしれない。しかし、この歌集のなかに小川太郎の名がみえるが筆者の歌友の多くの歌については何か書き残しておいてほしいと思う。どちらかというと浪漫主義系の激情型の歌が多いように思うが、歳月を経た目でみると、また別の側面を見出せるかもしれない。
彼岸へと旅立ちし妻を夢に見つ笑まひて吾に駆け寄り来るを
妻の呼ぶ声に目覚めし夜の明けに夢か現かしばしとまどふ
※「現」に「うつつ」と振り仮名
「あとがき」の文章やカトリックへの入信、それから知恵の実を食べたアダムの表紙絵の選択からも察せられるが、亡くなった妻への罪の意識、つまり贖罪の感覚が、加齢とともに強まってくるということは、あったのだろうと思う。しかし、人は自分の過去を悔いつつも肯定するということが同時になければ生きられない。老年の沈降して行こうとする意識といかにたたかうか、生きることの意味をどのようにして人は見出すことが出来るのか。歌集をめくりながら、そのようなことを考えた。
降りしきる落ち葉の中に打ち仰ぐ樹間の空に永遠の青
窓近く蝋梅の咲くを今日知りぬわが生にまた喜び一つ
放歌もて過ごせる長き夜もありきわが浪々の身をもてあまし
筆者は「短歌往来」にすぐれた評論を連載している知恵者である。この知恵者というのは、優秀な読書人として世上の出来事や種々の文学芸術についての見識を持った人のことである。人間の情の部分を担う短歌とのかかわりを深めることによって、その見識が養われたということが、私には慕わしい。
幼年のわれに飛びきし雪礫わが曾祖父を憎める者ゆ
表では徳彦様裏では妾の子父の哀しき分裂も見き
夢いくつかなはず終はるわが人生思ひやるだに過去は切なし
わが流転ここに終はるかあらたまの常陸の国の空晴れ渡る
老いらくの身にまた春は巡り来て光の中に涅槃を慕ふ
もはや表現上の独創とか新境地を追求するというような野心は作者の心の中にはないだろう。けれども、書くことへの執心はもち続けてほしいと思う。そのうちの一つに作者の一族の物語もあってもいいかもしれない。しかし、この歌集のなかに小川太郎の名がみえるが筆者の歌友の多くの歌については何か書き残しておいてほしいと思う。どちらかというと浪漫主義系の激情型の歌が多いように思うが、歳月を経た目でみると、また別の側面を見出せるかもしれない。