さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

『尾崎一雄対話集』より

2019年08月24日 | 大学入試改革
「石の話」の章より

安岡章太郎 これは前に阿川には話したけれども、小林秀雄さんにうかがった話です。奈良におられたときに小林さん、志賀さんのところへ行かれたでしょう。小林さんそのとき学生か何かで、志賀さんが直吉さんかだれか連れて、どこか海岸へ散歩に行かれるとき、うしろのほうをついて歩く。志賀さんが貝がらか石か忘れましたけれども、海岸で拾いながら歩かれた。小林さんもそれをまねして拾う。うちへ帰って、志賀さんが床の間かどこかへ拾ってきた石をずーっと並べる。小林さんもついでに並べてみると、その石か貝がらか、志賀さんが拾ってきたやつは実際きれいなんだって。それに較べて自分のはだめだというんです。
尾崎一雄 それは石ですよ。
安岡章太郎 なぜ、そういう話になったかというと、「君は志賀論みたいなものを書いているけれども、そんなもの幾ら書いたってだめだよ」と小林さんは僕に言われるんだね。結局それは拾ってくる言葉、それが決定的なんだって。(略)
(略)
阿川弘之 (略)僕がソロモン群島へ旅した時、ガタルカナル島の海岸で拾った貝がらみたいなものを土産がわりに持っていった。僕はそんなものにあまり知識も興味もない。ところが、持っていって、「こいつはここに置いといてやろう」なんて居間のある場所に置かれると、それがぴしっと光るのね。
(略)
志賀先生の身辺にあったものは名品ばかりではない。それこそ、僕がガタルカナルで拾ってきた貝がらでもすっと置いてある。それがぴしっと所を得ている感じになる。それを非常に感じた。

※ ここに回顧されているような「志賀直哉的な直観」こそ、日本の文化の精髄なのであり、これと理科系分野の新たな発見や着想を得るセンスとの間には、同じ根っ子がある。ここに日本の文化が歴史的に培ってきた、繊細な感性がある。ここをないがしろにしたら、日本の文化の独創性が衰弱する。

※ しかし、この対談の文章と、先日書いた「片桐石州 二話」の原文とを並べると、いまの文科省推奨の「異質な要素の文章を並べた新テスト問題」ができそうな気がしますね。

※ 念のために書いておくと、二つの文章を並べて思考能力をはかるという、今度の新テストタイプの問題は、発達障害をかかえている人や、アスペルガー系統の人にはもっとも苦手な設問の筈である。これをあまり追究すると、そちらの傾向を持つ優秀な人が不利になる可能性がある。

私は親族に自閉症傾向の子供をかかえているので、本気でこれを書く。だから、新傾向問題の新テストには反対だ。これはまちがいなく障害者選別が強まるテストだ。

 課題を限られた時間の中ではできない、という人は、もともと試験社会の中では不利なのだけれども、今度の センター試験 改悪 によって、よりその傾向は助長されるだろう。天才排除、未知の有能な「人材」排除に寄与するばかげた難問化によって、どれほどの損害が生まれるのかは、計り知れない、というべきだ。

※ これもついでに言っておくと、文部科学省がいまやろうとしている、 小学校からの早期英語教育の導入 は、音声から入ることを主にしている うちは、まだ 被害 が少ない。 けれども、教育熱心な保護者が、それに 文字とアルファベット を塾などで 補習 して与えてしまうと、その子供は、ひとつの学習集団に一人と言うような高い確率と割合で生ずる 英語特有のディスレクシア になる可能性がある。

 塾が利益のために 文字とアルファベット を補習する傾向はとめられないだろう。そうすると、英語教育に 十分にお金をかけた子供 を悲劇がおそう可能性は高い。

耳ではわかるが、それが文字と結び付けられない、という「障害」になってしまうのだ。これは英語教育の「良心的な」専門家が、ずっと言ってきたことだ。(そうでない「英語教育」の「専門家」もたくさんいます)。まあそれは、子供を塾に通わせるお金がない家庭の子弟が、十年後に勝つ可能性が高くなる、ということでもあるのでした。