さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

外塚喬『散録』

2018年02月15日 | 現代短歌
 今日は玄関の早咲きの梅の木が満開に近くなっているし、私としては一年でもっとも好きな時期である。さて、外塚喬氏の近刊『散録』の歌を引いてみたい。

水鳥は水のひかりにまぎれゆき人のこころに跡をのこさず

 こういう渋い歌がさらっと詠めるというところが、いいなあ、と思った。この二首前に、

ふるさとに咲く黄あやめがまなうらにありて暮れ方の鉄橋わたる

 ある年齢に達していないと決して詠めない歌というのは、あるのだと、自分より年齢が上の歌人の作品を見ていて思う事は多く、と同時に、自分もまた、そういう歌がわかる年齢になったのだと思わせられる事もしばしばある。この歌は、親をなくした者にはより深くわかる歌だと思う。

踏みしだく野の枯草に甘やかに匂へるあればさらに踏みゆく

ジョーカーの使ひどころを待ち待つに歳月はわがこころ曇らす

 長年職場で揉まれて生きて来た男が、定年以後はただの善人になりきるなんどということは、ある筈もない。とは言いながら、至極やさしくなっている。己の毒を吐き出すには、もうこだわりが遠くなっている。かつてあれほど憎んだ不正義漢のことも、もういいか、放っておいてやる、などと思い始めて。

思ひ出し笑ひのやうな表情に咲く花いくつ椿がいつつ

いたはりてくるるは花か花の香か目を瞑りこころを空に投げ出す

 二首目の花は、別にさくらでなくてもいいと思う。私の場合は梅で、子規は梅の香の歌の定型化したものを批判していたが、梅は香るし、まして古人は現代のわれわれよりも嗅覚が鋭かっただろう。人生において、年々歳々傷むことは増してゆき、加齢とともに悲苦の種は増える。けれども、花があることは、われわれを明るくする。

母を恋ふときのこころは青澄めるみづうみの上を風のごとゆく

うつむかず面をあげむ向日葵をひとりひとりの声と思ひて

 さりげない詠み口のなかに凝らされた工夫のあとをさぐって読むのも楽しみな一冊である。向日葵の歌は、人間への信頼を述べた述志の歌であろう。こういうかたちになる、というところがおもしろい。